千代田区番町と幕末のSTEM教育:大村益次郎の『鳩居堂』と同じ番町の塾が語る

 

大学受験塾チーム番町 市ヶ谷駅66m 東大卒の塾長による個別指導

花神(司馬遼太郎、新潮文庫)

大学受験合格への鍵:大村益次郎が示す「戦術」と「戦略」の違い

アームストロング砲(講談社文庫、司馬遼太郎)

STEM教育への取り組み

 

千代田区番町と幕末のSTEM教育:大村益次郎の『鳩居堂』と同じ番町の塾が語る

 

 大村益次郎という人を知っていますか?
 靖国神社(千代田区九段、大学受験塾チーム番町から800mほど)に像が立っている人です。幕末には、現在の大村益次郎像より番町側で、数学、物理学、化学、オランダ語などを教える塾を開いていました。

靖国神社に大村益次郎像があるのはなぜ?

 STEM教育とは、Science(科学、理科)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)の教育分野を総称したもので、近年言われ始めました。

 さて、明治維新は「薩長土肥」と言われます。薩長はいいとして、土佐も坂本龍馬、板垣退助などが有名です。ところで、肥前佐賀藩は何をしたのでしょうか?

 幕末の佐賀藩の藩主は鍋島直正という人です。西郷隆盛が敬愛していた薩摩藩主、島津斉彬(なりあきら。2018年NHK大河ドラマ『西郷どん』では渡辺謙さん。)とは、母方のいとこです。開明的という面では似た者同士のようです。

 歴史小説家の司馬遼太郎さんには鍋島直正を主人公にした『肥前の妖怪』(『酔って候』文春文庫)、『アームストロング砲』(『アームストロング砲』講談社文庫)という短編があります。司馬遼太郎さんは、作品に取り掛かると神保町から資料が消える、と言われるほど、史実を重視していた人ではありますが、小説家なので、史実ではないかもしれないことはお断りしておきます。たとえば、佐賀藩が作ったとされる「アームストロング砲」が本当にイギリス製と同等の性能だったかは怪しいようです。まあ、史実かどうかわからないことを論争しているのは、大学の歴史の先生も同じわけですが…。

 鍋島直正は佐賀藩で、日本初の製鉄所を作り、西洋式の銃や軍艦の製造をしました。「これらの産業開発のために藩の秀才を選抜して、英語、数学、物理、化学、機械学をまなばせ、かれらに極端な勉学を強いた。」(『アームストロング砲』)

 つまり、STEM教育ですね。英語、数学、物理、化学までは、当塾が授業として行っている科目と同じではないですか!機械学についても、たとえば、当塾のパソコンは、私が秋葉原でパーツを買って自作したものです。

 2020年の日本は新型コロナウイルスで大変なことになっています。天然痘(人類が唯一根絶に成功したウイルス)に対する牛痘法が本格的に日本で普及し始めたのは、鍋島直正の時代の佐賀藩だそうです。

 幕末、薩長土は、西郷隆盛、桂小五郎(木戸孝允)、坂本龍馬など、いわゆる「志士」と言われる人が奔走していましたが、鍋島直正は佐賀藩士に政治活動を禁止していました。そして、大政奉還、鳥羽・伏見の戦いの後、鍋島直正は、薩長土に佐賀藩の軍事力を提供したのでした。

 上野戦争と呼ばれる、東京の上野で新政府軍と旧幕府軍が戦った戦いがあります。このとき、佐賀藩のアームストロング砲(イギリス製?)は、加賀藩邸、つまり、現在の東京大学本郷キャンパスに据えられました。鍋島直正と総司令官、冒頭の大村益次郎の意思により、人ではなく建物に照準を合わせ、不忍池を越えて、旧幕府軍の根拠地である、現在の東京国立博物館のあたりの建物を粉砕し、旧幕府軍により東京が火の海になることもなく、上野戦争は終わったのでした。

 大村益次郎はもともとは長州の村医者。大坂適塾(大阪大学の前身。適塾の先生の緒方洪庵も天然痘に対する牛痘法の普及に名を残しています。)の塾頭として頭角を現します。この頃、物理や化学に興味を持っていたようです。

 そして、本業は長州の村医者のはずですが、なぜか、伊予宇和島藩に行き、砲台や蒸気船を作り、オランダ語の兵書を翻訳し、数学の本を書くことになります。宇和島藩主は伊達宗城(むねなり)という人で、奥さんは鍋島直正の姉妹。鍋島直正、島津斉彬などともに「蘭癖大名」(蘭学に傾倒する大名)と呼ばれます。(姓名からうかがえるように、宇和島藩の藩祖は伊達政宗の長男です。)その後、伊達宗城の参勤交代に伴い、江戸に出てきて、冒頭のように、現在の大村益次郎像より番町側あたりで「鳩居堂」(きゅうきょどう)という塾を開きます。江戸城、現在の皇居の内堀のすぐ近くですね。(ご存じだと思いますが、当塾の近くの大きな水たまりは、江戸城の外堀です。)

 大村益次郎は、この鳩居堂時代に、故郷の長州人、桂小五郎(木戸孝允)に見いだされ、長州藩に出仕するようになったようです。まず、長州藩立の学校の立ち上げに関わりました。ここでの教科も、物理、化学、数学、天文学、兵学といったもので、教科書は、ほとんど、大村益次郎の翻訳だったようです。

 1863年、「八月十八日の政変」が起こり、長州は京都を追われます。長州人の大村益次郎は江戸にいられなくなります。大村益次郎は「塾(麻布の長州藩邸(赤坂の檜町公園)に移っていました。)を閉じるのが、いかにもいやであった」と語ったそうです。司馬遼太郎さんは、大村益次郎は、村医者は家業、なぜか宇和島藩に行き、後年、長州、新政府軍の総司令官になるが、彼の一生で唯一、自分の意思でやった事業が鳩居堂だから、といった描き方をしています。

 長州は京都で暴発して潰走し(禁門の変)、一時は幕府に平身低頭しますが、高杉晋作が80人からの挙兵で長州藩をひっくり返します。この時、真っ先に駆けつけたのが、日本国初代首相、伊藤博文だそうです。幕府の第二次長州征伐、大村益次郎は総司令官、かつ、島根県方面では自ら指揮に出かけ、幕府軍を押し返します。先述のように、兵学については日本最先端。世界の最先端の銃についても、かねてからアンテナを張っていたようです。そして、かつて江戸城の内堀の少し外側で塾を開いていて、二度と江戸に戻ることはないと思っていたであろう彼は、戊辰戦争では江戸城の中に入り、総司令官として、「数学教師が数式を書いて答えを出すよう」(『花神』)に、日本の内戦を短期間で鎮めます。

 司馬遼太郎さんが大村益次郎を描いた『花神』の花神とは、花咲かじいさんのことです。大村益次郎は、STEMによって、日本に革命、新時代という花を咲かせた、といった意味のようです。

 STEM教育というと、なにか、最近のように思われがちですが、150年以上前に、日本の各地であった話なのですね。

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

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