【感想・書評】花神(司馬遼太郎、新潮文庫) :村医者、塾の先生、大村益次郎の生涯

 

大学受験塾チーム番町 市ヶ谷駅66m 東大卒の塾長による個別指導

靖国神社に大村益次郎像があるのはなぜ?

大学受験合格への鍵:大村益次郎が示す「戦術」と「戦略」の違い

番町と幕末のSTEM教育

 

花神(司馬遼太郎、新潮文庫) :村医者、塾の先生、大村益次郎の生涯

 

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『花神』の感想、書評

 『花神』は、大学受験塾チーム番町から800mの靖国神社(千代田区九段)に銅像が立っていて、そこから番町方面に行ったところで「鳩居堂」という蘭学の塾も開いていた、大村益次郎という人を描いた小説です。1977年、NHK大河ドラマにもなっています。

 

村医者から大坂適塾塾頭へ

 村田蔵六(後の大村益次郎)の家業は長州の村医者でした。大学受験塾チーム番町は、医学部受験も対象としています。
 長州から大坂へ向かう船中、同行者に「あんたは撃剣の心得があるか」と聞かれ「刀の抜き方も知らん」と答えています。これは、後年、第二次長州征伐で幕府軍を迎え撃つ時に、戦国さながらの装備でやってきた幕府軍を押し返す、また、戦国さながらの戦いをしようとした長州軍を叱ることの伏線ですね。大村益次郎は、オランダ語で読んだ兵書の戦法と最先端の銃という、日本史上前代未聞、最先端の戦い方で、幕府軍を押し返します。受験もこう戦いたいですね。

 蔵六は、適塾の教授法や課業の合理性に魅力を覚えます。合理性。これが、蔵六を大村益次郎として歴史の表舞台に登場せしめたものであり、また、襲撃による死という、表舞台から退場せしめたものでもありました。

 適塾では、成績順に、良い畳の場所に移動できます。蔵六は適塾の塾頭になりました。大学受験塾チーム番町のみなさんにも、がんばってほしいものです。ただ、成績を公にすることは、良いことなのでしょうか。競争心を煽る反面、生徒が過度な圧力を感じ、成績が低い生徒は、自信をなくし、学習意欲の低下や精神的なストレスを抱えるリスクがあるようにも思います。適塾のような塾だから、可能だったのであり、塾を主宰している者としては、考えさせられます。

 

帰郷、村医者へ

 蔵六は、父の願いにより、長州の故郷に帰ります。
 蔵六の父は、葛根湯の使いすぎで評判が悪かったのですが、蔵六は、葛根湯を使わなかったので、頼りなく思われました。少々の風邪の患者が来ても「部屋を暖かくして3日ばかり寝ていなさい」「あなた程度の風邪をなおせるような薬は世界中にありません」と言う。これは、現代の医療でもそうで、多くの患者は、薬をもらわないと不安でしょう。1978年版ドラマ『白い巨塔』の里見脩二の兄も、そういう医師だったと思います。個々の医者の治療法がどのように患者や同僚から受け止められるか、そしてそれが医者の評判にどのように影響するかというテーマを掘り下げるための舞台となっており、読者に多くの思索を促すと思います。
 蔵六の父は、このような機微は理解していて「薬は効こうが効くまいが、患者の不安を鎮める」と言いますが、超合理主義者の蔵六はそのようなことができません。これも、合理主義者としての歴史舞台への登場と退場の伏線でしょうね。
 また、蔵六の、患者の自然治癒力を信じ、体を休めることで回復を促すという、医療の本質に対する深い理解と、患者の健康を第一に考える誠実さを反映していると思います。

 

宇和島で黒船を作る

 宇和島藩主伊達宗城(伊達政宗の長男を始祖とする分家)は、黒船を作ってやろうと思い、藩の科学技術を宰領する人物を探しました。そこで推薦されたのが村田蔵六です。「上医は国の病を治す」とは、三国志演義などにも出てくる言葉です。蔵六は家業の村医者を辞め、宇和島藩に出仕します。
 そして、伊達宗城に、蒸気で動く軍艦と西洋式砲台を作るよう、命じられます。大坂適塾の塾頭としての学力を見込まれたのでしょう。作ってしまうだけの勉強をしていた蔵六も蔵六ですね。伝統的な武家社会と新しい技術革新との緊張の場面と言えると思います。
 ここで、提灯貼りの嘉蔵という町人とタッグを組むのも、後に武士の世を終わらせる伏線でしょう。技術革新が社会構造にどのような変化をもたらすかを物語っていると思います。
 また、嘉蔵は走る箱車を作り、まず、宇和島藩の家老を驚かせます。これも、蔵六がのちに、思想ではなく技術で歴史を転回させることの伏線でしょう。
 結局、蒸気船はできます。試乗で平素沈鬱な家老が「村田、進んでいるではないか」とはしゃぎ、蔵六は「進むのはあたりまえです」「あたり前のところまで持ってゆくのが技術というものです」と家老をむっとさせます。度々出てくる、蔵六の超合理主義性、空気の読めなさです。
 この頃、蔵六は、シーボルトの娘、イネにオランダ語を教えます。蔵六は「あなたはグランマチカ(文法)をばかになさるからこの程度のことが読めないのです。」と言います。
 現在の英語教育でも、「構文派」と「多読派」の不毛な対立が見られます。合理主義者の蔵六は「構文派」。現在でも、東大卒や京大卒など、きちんと数学のある入試を突破した指導者は「構文派」が多いですね。そして、やや感情的に描かれるイネは「構文軽視派」。
 受験英語の神様と言われた伊藤和夫先生は、何十年も前から「理屈半分、慣れ半分」と両方の重要性を説いています。塾長もそれでいいと思います。

 

番町で塾の先生になる

 蔵六は、伊達宗城の参勤交代に伴い、江戸に出てきます。
 蔵六は、新道一番町、現在の大村益次郎像(千代田区九段、靖国神社)から番町側に南下したあたりで、「鳩居堂」という塾を開きます。オランダ語、物理学、生理学、医学、兵学を教えていたようです。兵学?蔵六は村医者で、実戦経験はありません。しかし、この、オランダ語の本を読んで学んだ兵学で、後年、幕府の第二次長州征伐を押し返し、戊辰戦争を早期終結へと導くことになります。
 「机上の空論」という言葉がありますが、蔵六の功績を鑑みるに、座学と実践の関係を再考察させられると思います。

 そして蔵六は、幕府の学問所でも、兵学を教える教授になります。

 この時期、蔵六は、父の病気を理由に、一時期、長州に帰国します。
 父との会話で蔵六は進路を考えます。幕臣(つまり殿様)になるのか…。しかし、蔵六の本心は長州藩に仕えることでした。自分のことなど知らないであろう故郷の長州藩に。理由は「故郷が好きだから」。
 実は、『花神』のテーマには、この故郷好きな蔵六のアイデンティティ(帰属意識、自分を自分たらしめているもの)もあるのではないかと考えます。超合理主義者の大村益次郎が、一方では、アイデンティティという反合理的なもの、感情的なものによって、幕臣の身分を捨て長州に仕えるという、反合理的な判断をする。

 江戸に戻ってきた蔵六は、女性の解剖を依頼されます。蔵六は女性の解剖をしたことがありませんが、引き受けます。幕府の学問所の書物を読み、あと必要なのは想像力と少しの勇気。これも、後年、蘭書だけの知識、実践経験ゼロで幕府軍を迎え撃ったのと同じ、座学と実践の問題でしょう。

 さて、長州藩は八月十八日の政変で京都を追われます。蔵六にも帰藩命令が出ます。
「もはや、江戸にもどれないかもしれない」
 ところが面白いことに、蔵六は後年、戊辰戦争の総司令官として、江戸に戻ってきます。
 また、蔵六は後年「塾を閉じるのがいかにもいやであった」と語ったそうです。戊辰戦争の総司令官、軍政家として栄達する蔵六ですが、結局、自分の意思でやった事業といえば、塾だけだったからです。同じく塾を主宰している塾長としては、うれしいですね。

 塾での最終講義は、史実はわかりませんが、『花神』では「タクチーキ(戦術)のみを知ってストラトギー(戦略)を知らざる者は、ついに国家をあやまつ」というテーマだったとされます。戦術と戦略は軍事でははっきり区別されます。戦術は、戦いに勝つための個々の具体的な方法。戦略は、戦術より総合的・長期的な戦争に勝つための方策。 
 たとえば、大学受験で東大に受かりたいとしましょう。がんばって世界史で塾に通って、時間と労力を費やした挙句、数学の点数が足りない、といった「戦略」負けしている人がとても多いように思います。

 長州藩は京都で暴発して御所に向かって攻め込み(禁門の変、蛤御門の変)、潰走します。長州藩は朝敵になります。

 

蘭学で幕府軍を押し返す

 幕府軍は長州に攻め込みます。
 長州軍は、まず、芸州口の戦いで勝ちます。大村益次郎は喜びません。勝つように作戦を立てたのだから勝って当然、ということでしょう。受験もこうありたいですね。
 大村益次郎は、自ら、石州口の戦いに、指揮をとりに出かけます。
 長州侍は一騎打ちをはじめました。「ばかな」。大村益次郎は、

自分の兵学思想とかけ離れたいくさをしていることに腹がたった。
いまから満点下津々浦々にいたるまで斬り従えなければならない。
革命期にあっては思想の普及は軍隊によるしかないのである。
それがああいう戦さをしていては、百年かかっても幕府はびくともしない。
蔵六の兵学思想には、豪傑や剣客。あるいは槍の名手といった種類の人間は不要であった。
忠実に命令をきく歩卒さえおればよい。
歩卒たちに敵よりも射程が長く命中精度がよく射撃操作の軽快な小銃をもたせ、そういう大小の集団を巧妙に運動させ、敵を兵器と戦術で圧倒してゆくことが肝要なのである。

 これは、塾長の受験の戦い方の考えと同じです。
 成績が足りない人が、普通の人と同じく、普通の予備校に通い、志望大学に合格できるのかと。新たな受験思想が必要ではないかと。

 たとえば、先生が解説して板書してそれをノートに写す。しかもその問題は、入試で合否を分けるより上のレベルで、合否には関係ない問題である。そんな「作業」に時間を費やしていて、受験に勝てるか、と。そんなことをしている暇があったら、合否を分けるまでのレベルの問題をひたすら解けるようにして、網羅度を上げろ。英文を読み込め、と。

 

物理学のように戊辰戦争を片づける

 大政奉還後、江戸は西郷隆盛や勝海舟では収まらず、大村益次郎がいよいよ、歴史の表舞台に登場します。
 そして、いよいよ、大村益次郎の超合理主義性、空気の読めなさが、彼の生命に関わることになります。
 江戸城には、薩摩の海江田信義が参謀としていましたが、はたして、海江田より上なのかどうかがはっきりしない大村益次郎が海江田にいきなり命令をします。そして、ついに、海江田に

「アナタはいくさを知らぬのだ」

と言ってしまいます。明治2年に大村益次郎は襲撃されて亡くなりますが、黒幕は海江田だと言われます。
 ここが難しいところで、勝つためには大村益次郎が采配をとるしかありません。海江田に軍略の力量が足りないことを理解させなければなりません。
 一方、この大村益次郎の空気の読めなさという欠点が、大村益次郎の魅力でもあるのだと思います。ここで、うまく立ち回れるような器用な人物であったら、はたして司馬遼太郎さんは、大村益次郎を描いたでしょうか。また、日本史はどうなっていたでしょうか。

 これは、進学校のクラス30位以下で入塾してくるような親子も同じようなものなのです。クラス30位以下なのに、自分の日常のだらしなさ、自分の教育力の無さを自覚していない。なので、塾長に厳しい指摘をされると、感情的になって退塾し、受験も、その学校としてはどうだろう、いう結果になります。
 この前後も、大村益次郎は、

数学教師が数式を書いて答えを出すような当然の態度で

総司令官として司令をし、作戦を遂行します。

 ちなみに、上野戦争では、アームストロング砲が、加賀藩邸、今の東京大学本郷キャンパスに据えられ、新政府軍の勝ちを決します。塾長は、一時期、上野の不忍池が通学路だった時期があり、この話は感慨深いです。

 

花神とは?

 中国では、花咲かじいさんのことを花神というそうです。
 大村益次郎は、蘭学を学び、大坂適塾の塾頭に登りつめた、その超合理主義性でもって、日本中に「維新」という花を咲かせる花咲かじいさんの役割をしたのでしょう。

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

 

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