【感想・書評】非認知能力の権威、ヘックマン教授の著書:幼児教育の経済学(東洋経済新報社)
『幼児教育の経済学』の感想・書評
2015年7月2日第1刷。
著者は、2000年にノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・J・ヘックマン教授です。ヘックマン教授は1965年にコロラド大学を卒業。1971年にプリンストン大学で経済学のPh.Dを取得。シカゴ大学ヘンリー・シュルツ特別待遇経済学教授です。
本書の原題は『Giving Kids a Fair Chance』。子供たちに公平な機会を与える、ということですね。
ただ、本書は、ヘックマン教授による記述はあまり多くありません。最初にヘックマン教授が自身の研究と見解を述べます。次に、各分野の専門家が、ヘックマン教授の研究に対し、意見、問題点を述べます。最後に、ヘックマン教授が、各分野の専門家の意見に対し、再び見解を示します。このような構成となっています。
非認知能力の重要性
『幼児教育の経済学』では、まず、ヘックマン教授は、今日のアメリカでは、どんな環境に生まれあわせるかが不平等の主要な原因の1つになっている、と問題提起します。専門的な技術を持つか持たないかは、乳幼児期の体験に根ざしていると。
そして、これは、適切な社会政策を施せば是正できるのだが、適切な政策には科学的根拠が必要だ、と述べています。
この教育政策についての科学的根拠という点は、慶應義塾大学総合政策学部教授で教育経済学がご専門の中室牧子先生も、著書「学力」の経済学(ディスカヴァー)で、アメリカでは進んでいて、日本に足りない部分だと述べています。日本の教育政策は、どうも、政治家の思いつきでいい加減らしいので、しっかりしなければならない部分だと思います。
そして、科学的根拠を入念に検討したところ、人生で成功するかどうかは、認知的スキル(ペーパーテストの点数)だけでは決まらず、根気強さ、注意深さ、意欲、自信といった「非認知スキル」も貢献していて、その後の学歴、収入、健康管理、犯罪率などに影響を与えることを明らかにしました。しかも、非認知スキルはペーパーテストの成績にも影響する、と述べています。当塾は、大学受験塾なので、仮にペーパーテストの点数を最優先したとしても、それは、根気強さ、注意深さ、意欲、自信といった非認知スキルが高い人のほうが、ペーパーテストの点数も高くなるだろうと思います。
そして、幼少期の介入により、非認知スキルを育むことが、成人教育プログラムなどよりも、はるかに、費用対効果の面で、効果が高い、としています。
また、他の学者の研究を引用し、ひとり親家庭では、うつ病や妊婦の薬物使用や喫煙が多く、母乳育児や語りかけによる刺激が少ない。家庭内暴力、虐待、ネグレクトといった小児期の悲惨な体験は、成人してからの病気や医療費の多さ、うつ病や自殺の増加、アルコールや麻薬の乱用、労働能力や社会的機能の貧しさ、能力的な障害などと相関関係があることがわかっている、としています。これは、神経学的にも筋が通っていて、脳の発達に異常が生じる、とのことです。本書には、極度にネグレクトされた3歳時の標準より著しく小さく、萎縮した脳の頭部スキャン画像が載っており、衝撃的でした。
ヘックマン教授への提言
『幼児教育の経済学』の中盤では、他の大学の先生、教育関係者による、ヘックマン教授への提言が書かれています。
1つ目は、ヘックマン教授の提案も支持するものの、成人の職業訓練プログラムも成果を発揮することが研究で明らかになっている旨の、大学教授の主張です。幼児期にプログラムを受けられなかった場合、第二弾が用意されているべきだ、ということでしょう。
たしかに、成人の職業訓練プログラムも用意されていた方がいいに決まっていますが、冒頭でヘックマン教授も述べているように、政策には費用が必要であり、なかなか難しい問題だな、と思いました。
2つ目は、やはり、ヘックマン教授の提案を有望であるとするものの、子供側だけでなく、シングルマザー側も危機的状況にあることを見落としている、また、子育てのにおける母親の役割を奇妙なほど重要視し、父親についてあまり論じていない、さらに、ややもすると、一部の女性が子育てに適していないと烙印を押すかの発言に思われる、という旨の、大学教授の主張です。
まあ、最初の2つについては、そうかも知れません。しかし、最後の「烙印」については、「言葉狩り」といった印象を受けます。塾長は、「受験がうまくいかないレベル」でも、ご家庭への介入は必要であると考えます。本書で論じられているような家庭は、どこ大学に入るか、といった問題よりも、はるかに悲惨な状況を想定しており、なおさら、家庭への介入は大切ではないかと考えます。
3つ目は、ヘックマン教授が引用する「ペリー就学前プロジェクト」のサンプル数が少ない。逆に、幼児期の介入の効果に否定的な報告もある、という旨の、研究所の研究員の主張です。これについては、今後の研究を待つしかないと思いますが、塾長は、塾を主催している経験上、幼児期の非認知能力を育むための介入には効果があるのではないか、と考えています。
4つ目には、マインドセット「やればできる!」の研究の著者、スタンフォード大学の心理学のキャロル・S・ドゥエック教授が登場します。ヘックマン教授の貢献は多大、かつ、論理的だが、思春期の子供への介入も効果的で、かつ、安価であるという主張です。
たしかに、先述のドゥエック教授の著書を読むと、たとえば、保護者や学校の先生1人1人が、日頃の発言に気をつけるだけで、非認知能力をかなり育むことができそうだ、という気はします。
5つ目は、財源に限りはあるが、質の違いよりも、すべての子がプログラムを受けられることが大事、である旨の大学の先生の主張です。これまでの研究者や政策立案者は、プログラムの質の向上ばかりに注意を集中しすぎていたと。
これについては、たしかに、恵まれない子供のすべてがプログラムを受けられることが理想であり、簡潔、かつ、効果の高いプログラムが望まれるのだと思います。たとえば、先述のキャロル・S・ドゥエック教授の著書や、後述のポール・タフさんの著書を読むと、そのことは可能なのではないか、と思います。
6つ目は、「ペリー就学前プロジェクト」の成果は比較的小さい旨の、研究所の副所長の主張です。ただし、「ペリー就学前プロジェクト」の時期に比べ、非認知能力をめぐる研究は進歩しているので、少予算で、かつ、効果の大きい幼児期の介入を行うことが期待できるのではないかと考えます。
7つ目は、学業成績や収入は大事だが、人生の全てではない旨の大学の先生の主張です。
もちろん、お金持ちにも不幸な人は多い、というのは、よく言われていることです。しかし、そういう人達は、お金を持っているのだから、本人にその気があれば、コーチをつけたり、カウンセラーに相談したり、問題解決の方法を持っているわけです。(そう考えると、お金を持っていて、不幸な人というのは、なんなのでしょう。)一方で、本書は貧困の連鎖、それに起因する脳の発達障害、萎縮などを問題にしています。自分で断ち切る手段を持たないから、連鎖なのです。この主張は、ちょっと論点がずれているのではないか、という気がします。
8つ目は、良いプログラムは何が違うのかを研究し続ける必要がある旨の教育関係者の主張です。これは、ごもっともです。そして、現在も、非認知能力についての研究は、以前よりさかんに続けられているでしょうし、上記でくり返しているように、「ペリー就学前プロジェクト」の時期に比べ、非認知能力をめぐる研究は進歩しているので、良いプログラムのための材料は揃いつつあるのではないかと思います。
9つ目は、恵まれない人々の文化的価値感に配慮した介入を、という旨の大学の先生の主張です。これも、ごもっともで、異なる文化的価値観を一方的に押し付けたところで、保護者は納得しないでしょう。これは、貧困層のみならず、日本で中学受験をするような、経済的に余裕がある層でもそうです。まあ、文化というよりは、個人的な思い込み、それが単なる思い込みであることを知らされた時の自尊心の喪失、それに伴う激しい怒り。中学受験層で、教育が上手くいかない家庭は、だいたいこのような感じでしょう。
10番目は、就学前の親への教育と「考え方を変えること」が子供たちを救う、旨のなにかの団体の代表の主張です。これは、その通りで、家庭への介入の一種でしょう。当塾も、保護者の方が、教育が上手くいっていない保護者の特徴を持っている場合、修正してもらうよう、指摘しています。
非認知能力を育むためには?
『幼児教育の経済学』は、非認知能力を育むための具体的方法については、ほとんど書かれていません。そのようなノウハウを手っ取り早く知りたい、という場合には、
SMARTゴール 「全米最優秀女子高生」と母親が実践した目標達成の方法(祥伝社)
世界最高の子育て 「全米最優秀女子高生」を育てた教育法(ダイヤモンド社)
といった本を最初から読んだほうがいいと思います。上記2冊の著書はボーク重子さんという一般人ですが、大学などのリサーチを研究して書いた本なので、ありがちな母親の独りよがりな教育本ではなく、かなりまともな本だと思います。ビジネスなどでは有名な手法も載っています。
非認知能力について、背景を知りたい人は?
成功する子 失敗する子 何が「その後の人生」を決めるのか(英知出版)
私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む(英知出版)
といった本を読んだほうがいいかと思います。一方で、特に、上記2冊は、大学の研究をベースにした、かなり信頼性が高いと思われる本ではありますが、著者は大学の先生ではなく、ポール・タフさんというジャーナリストです。
ただ、ネットなどが発達し、情報の信頼性が問題になっている現在において、『幼児教育の経済学』のような、「非認知能力」の研究者自身が書いた文章を読んでおくこと、その研究者に対する、研究者による批判を知ること、は大切な姿勢であると考えます。
この記事を書いた人
大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。