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【感想・書評】大学受験に大切な非認知能力についてのポール・タフ氏の本

 

非認知能力とは?

非認知能力を育むボーク重子さんの本

非認知能力の権威、ヘックマン教授の本

小児科医のぼくが伝えたい最高の子育て(マガジンハウス)

非認知能力をエビデンスで語る:「学力」の経済学

レジリエンス、回復力を育む本3選

やる気を育むオススメの本2選

GRIT、やり抜く力を育むオススメの本2選

 

【感想・書評】大学受験に大切な非認知能力についてのポール・タフ氏の本

 

ポール・タフ氏の実績と信頼性

 ポール・タフさんは、アメリカのジャーナリストです。大学の先生ではありませんが、著書は大学の研究に基づいた話が多く、巻末には引用論文が掲載されており、かなりちゃんとした本だと思います。

 

成功する子 失敗する子(英知出版)の感想、書評

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非認知能力は学歴、大学受験に影響する

 原題は『How Children Succeed Grit, Curiosity, and the Hidden Power of Character』。ポール・タフ氏の著作です。Gritはやり抜く力、Curiosityは好奇心。いわゆる「非認知能力」がメインテーマです。
 IQや学力テストで計測される「認知能力」に対し、「やり抜く力」「自制心」「自信」といったものを「非認知能力」といいます。学力テストで計測されないだけで、「非認知能力」は、学歴にも大きく影響することが、ノーベル経済学賞も受賞したヘックマン教授などの研究で明らかになっています。つまり、大学受験にも大切だということです。

 

非認知能力と家庭環境

 『成功する子 失敗する子』の第1章では、子供時代の暴力、虐待、ネグレクト、両親の離婚・別居、などの逆境が、成人してからのネガティヴな結果と非常に深い相関関係があることが述べられます。科学者の意見はおおむね一致していて、逆境によるストレスが、発達段階の体や脳にダメージを与える、とのことです。
 強く印象に残ったのは子供時代の逆境が成人期にどれほど大きな影響を与えるか、という事実です。私たちの多くは、子供時代の体験が後の人生に深く影響を与えることを感じているでしょうが、それが科学的に裏付けられていることを改めて認識すると、その影響の深刻さと広がりに驚かされます。

 とりわけ心に残ったのは、子供の頃の困難が身体や心に残る影響についての説明です。それは、育成の過程における外的要素が子供の発達に与えるダメージを具体的に描き出しています。この点は、科学的な視点から子供の成長と発達に対する深い理解を得るために、非常に有益な視点を提供します。
 さらに、この章は私たちが子供たちの環境を理解し、向上させるための重要な知識を提供しています。これは、親や教育者、さらには政策立案者にとって、子供たちの将来の成功にどのように貢献できるかという重要な指針となるでしょう。
 全体として、この章でポール・タフ氏は、私たちが子供の発達と成長の過程を理解する上で大変有益な洞察について述べています。それは、子供たちが直面する可能性のある困難とその後の人生にどのように影響するかを理解することで、彼らの将来をより良いものにするための道筋を示してくれています。

 

非認知能力についての詳しい解説

 『成功する子 失敗する子』の第2章では、いわゆる「非認知能力」の要素について述べられます。
 本書では、『GRIT やり抜く力』(ダイヤモンド社)の著者、アンジェラ・ダックワース教授が、多すぎると教育システムに取り入れるのが難しいため、
・やり抜く力
・自制心
・意欲
・社会的知性
・感謝の気持ち
・オプティミズム(楽観主義)
・好奇心
の7つに絞り込んだエピソードが紹介されます。(他の要素が挙げられることもあります。)ポールタフ氏は、このようなことが大切であるという価値観を教育することを提案しています。
 この章を読み、その洞察力と具体性に非常に感銘を受けました。子供の成功に対して、非認知能力がいかに重要な役割を果たすかを理解するための貴重なガイドラインがポール・タフ氏により描かれていると感じました。
 この章で特に興味深いと思ったのは、特定の非認知能力の要素が子供の成長と成功にとってどれほど重要であるかを明示している点です。それは課題を達成するための執念や、自己制御、または人間関係を理解する能力といった要素が、教育の一部として強調されています。
 また、ポール・タフ氏は、それらの要素がいかに多様であるかを示しており、これら全てが教育プロセスに組み込まれるべきだという提案は、我々の教育に対する視野を広げるものでした。これらの要素が、伝統的な教育システムではしばしば見落とされがちな、子供たちが成熟して成功するために必要なスキルを強調しているからです。
 この章が示す一連の要素とその重要性を理解することは、教育者だけでなく、親やメンターにとっても有益であると感じました。それは、子供たちが成長し、自己実現を達成するために必要な能力を育むのに役立つ、具体的な指針を提供してくれるからです。
 全体として、ポール・タフ氏により、この章は非認知能力の重要性を明らかにし、それらを子供たちの教育にどのように組み込むべきかについて具体的な提案をしています。これらの洞察が私たちが子供たちの成長と成功を支える方法についての理解を深めるのに貴重なガイドとなると感じました。

 

チェスの反省が非認知能力を高める?

 『成功する子 失敗する子』の第3章で、ポール・タフ氏は、過半数が低所得者層の中学校のチェスチームの話を紹介しています。顧問の先生は、チェスの試合の後、たとえば、なぜ負けたか、どうすれば勝てたかについて、詳細に検討します。ポール・タフ氏は、この検討が、メタ認知(自分自身を把握する能力)、実行機能(混乱していたり予測がつきづらかったりする状況や情報に対処する能力、問題解決能力、既存の枠組みにとらわれずに考える能力)と関係があるのではないか、とします。 
 第3章の描写は、教育の枠を超えて子供たちの成長と成功を如何に促進するかという洞察に富んでいると感じました。特に、チェスチームの活動を通じて、子供たちが自己反省や問題解決の能力を学び、それがどのように彼らの発展に寄与するかという視点は、教育方法を再考するための重要な示唆を提供しています。
 この章で最も興味深いと感じたのは、ゲームの結果を検討することが子供たちのメタ認知や実行機能にどのように影響するかという提案です。これは、自己認識と問題解決の能力という重要な非認知能力を育むことの重要性を強調しています。これは教育の場においては時として見過ごされがちな能力であり、この本がこれを明確に示していることに感銘を受けました。
 この章は、教育者や親が子供たちの成功を支援するために必要な具体的な方法を提供しています。それは、一見すると単なるゲームであるチェスが、実は子供たちが未来に向けて必要な能力を育むための効果的なツールとなり得るという示唆に満ちています。
 全体として、この章でポール・タフ氏は、我々が子供たちの教育に取り組む方法を再考するための有益な洞察を提供してくれました。非認知能力の育成に焦点を当て、その発達を促進するための具体的な手法を示してくれることで、子供たちが自己認識と問題解決の能力を強化する助けとなると感じました。

 大学受験塾チーム番町では、本書のチェスチームと同様に、学校のテストや模試について、どうすれば十分な成績を取ることができたか、詳細な検討をします。自画自賛で恐縮ですが、塾長の生徒は、成績が大躍進します。

 

非認知能力は大学卒業、人生において大切

 『成功する子 失敗する子』の第4章で、ポール・タフ氏は、大学をきちんと卒業するのにも「非認知能力」が大切だ、と述べます。

 全体として、『成功する子 失敗する子』は学業成績だけでなく、人生における成功に必要なスキルや資質について、示唆に富む洞察に富んだ内容であると感じました。ポール・タフ氏が提示する研究や逸話は、こうした本質的なスキルを身につけるために子どもたちをよりよくサポートする方法について、貴重な視点を提供してくると思います。

 

『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』(英知出版)の感想、書評

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 2017年9月6日発売。
 原題は『HELPING CHILDREN SUCCEED』。つまり、子どもが成功するのを助ける、ということです。ポール・タフ氏の著作です。

 内容は、日本語の副題の通り、「非認知能力」についてが多いです。
 IQや学力テストで計測される「認知能力」に対し、「やり抜く力」「自制心」「自信」といったものを「非認知能力」といいます。学力テストで計測されないだけで、「非認知能力」は、学歴にも大きく影響することが、ノーベル経済学賞も受賞したヘックマン教授などの研究で明らかになっています。そして、非認知能力が高い人は、犯罪率が低く、生活保護率が低く、年収が高い。

 

貧困の連鎖と非認知能力

 子どもの貧困は、上記のように、一生の財産になる非認知能力を獲得する機会を奪い取ってしまいます。そして、そのような子どもは、大人になった後に、仕事や生活面でより多くの機会を失う可能性が高い。結果として、大人になってからも貧困に陥ってしまう。ポール・タフ氏は、このような貧困の連鎖を問題提起しています。
 この貧困の負の連鎖は、断ち切らなければならないと思いました。当然、この負の連鎖には、大学受験、大学への進学も含まれるでしょう。

 

エビデンス(科学的根拠)と非認知能力

 先述のように、『私たちは子どもに何ができるのか』の巻末には、多くの論文が引用されています。
 非認知能力への取り組みが、低所得層の子供たちの成果を改善する上でのエビデンスが、神経科学、小児科学の分野にも見られるそうです。過酷な、あるいは、不安定な環境が、成長過程にある幼少期の子供たちの脳や体に生物学的変化をもたらす。そうした変化は、思考や感情を制御する能力の発達を損なう。すると、情報を処理したり、感情を制御したりすることが困難になり、学校生活を上手くこなすことが難しくなる。当然、大学受験にも悪影響が出る、ということですね。

 子ども時代の環境がその後の生活に深く影響を与えるという視点から、我々が子どもたちにどのような教育を施すべきかという問いへの回答を探ることは、人間の未来そのものに対する問いに他ならないと思います。

 たしかに、進学校の下位層は(低所得層とはいえませんが)、保護者が過干渉で、勉強をするようにガミガミ強いられた結果、なにか、精神的に幼い、という場合が多いように思います。脳に何らかの不健全な変化が生じているケースもあるのかもしれませんし、単に、人間教育の欠如の結果なのかもしれません。

 本書では、ポール・タフ氏は、非認知能力は「子供をとりまく環境の産物」と考えたほうが、より正確であり、有益である、としています。ということは、子供本人よりも、環境に働きかけなければならない。

 

ストレスと非認知能力

 研究者らの結論によれば、環境による影響のなかで子供の発達をもっとも左右するものは、ストレスだとのことです。体内の複雑なストレス反応のネットワーク(脳と免疫システムと内分泌システムを結ぶネットワーク)の発達に強い影響を及ぼすそうです。
 また、幼い時期の高レベルのストレスは、前頭前皮質、つまり、知的機能をつかさどる最も繊細で複雑な脳の部位の発達を阻害し、感情面や認知面での制御能力が育つのを妨げるようです。家庭でのストレスが非認知能力に大切な脳の発達に悪影響を与える。知的機能ということは、大学受験におおいに関係がある、ということですね。
 感情面でも、失望や怒りへの反応を抑えることができなくなり、小さな挫折を圧倒的な敗北と感じるようになってしまう。
 学校生活でも、つねに脅威を警戒し続ける極度に敏感なストレス反応システムは、けんか、口ごたえ、教室内でのわがままな振る舞い、大人から差し伸べられた手を拒むようになる、などの自滅的な行動パターンを引き起こす、としています。
 認知面では、前頭前皮質が制御する、実行機能(脳の働きを監督する航空管制官に例えらる高次の知的能力で、作業記憶、自己調整、認識の柔軟性などを含む)の発達が阻害されるとのことです。これも大学受験に大切そうですね。

 そして、子供にとって、一番大きな環境は、親、家族、家庭です。まあ、そうだろうというところですが、親のあり方が子どもに大きく影響するということです。

 子どもの貧困と非認知能力に関わる問題の解決策は、教育者や親が子どもたちの自律感や有能感、関係性を育むこと、そして、子どもたちが自分自身の能力を信じ、困難に立ち向かう勇気を持つことを支える環境を整えることにあると言えると思います。これは、教育者や親、そして社会全体が子どもたちの未来を真剣に考え、対策を練る必要がある大きな課題であると感じます。また、これは、子どもたち一人一人が自身の可能性を信じ、自己の力を最大限に発揮できる社会をつくるための一つの方向ともいえるでしょう。非認知能力は、一般的な知識や技能を超えて、人間の成長と社会的成功に大きな影響を与える能力である。だからこそ、子どもたちが非認知能力を最大限に伸ばすことができるような環境を提供することは、子どもたちの未来を明るくするための重要な一歩となると思います。

 高校の先生や、大学受験界の、気鋭の現場の指導者の中では、「家庭はリラックスできる場でなければならない」というのが通説になっていると思います。ポール・タフ氏は本書で、そのことを、脳神経科学などの観点から、科学的にも述べている、ということですね。
 大学受験塾チーム番町でも、ご家庭での保護者の方の振る舞い方は、指導させていただいております。保護者の方が「うちの子は云々」という場合、たいてい、そう言う保護者の方のほうにに、なにか、精神的幼稚さを感じる、40年も50年も生きてきたのに、自己修養を怠ってきたのだろうなあと思う、ケースが多いです。

 

インセンティブ、モチベーションで格差は縮まるか?

 2018年8月、大阪市では、学力テストの成績を上げた先生へのボーナスを導入する考えだと発表しました。学力テストの成績が上がるということは、大学受験にプラスですね。
 しかし、『私たちは子どもに何ができるのか』でポール・タフ氏は、大学の研究を紹介し、教師、生徒、保護者へのご褒美は効果がないとします。そして、モチベーションのためには
・有能感(やり遂げるのに難度がちょうどいいタスク)
・自律感(生徒が自分で選び、自分の意志で行う)
・関係性(人とのつながり)
が大切だとします。

 有能感は、自信、自己効力感とも言い換えられるでしょう。これらが、大切だということは、エビデンスに基づく大学教授の著書や、気鋭の現場の指導者の著書などの類書で、多く述べられていることです。塾長もそう思います。
 自律感もそうです。世界陸上400mハードルで銅メダル2回の為末大さんは、「自分の人生を生きているという感覚」が、一番の才能であり、最も後から与えにくい、としています。やはり、似たようなことは、多くの類書で述べられています。塾長もそう思います。

 

結局、非認知能力を育むためには?

 『私たちは子どもに何ができるのか』でポール・タフ氏は、面白いことに、生徒から非認知能力を上手く引き出すことのできる教育者たちは、非認知能力の話を教室ですることはない、と述べています。
 たとえば、『成功する子 失敗する子』(英知出版)に登場するチェスの顧問の先生です。彼女は、低所得層の割合が多い、公立高校の先生で、チェスクラブを強豪チームに育てました。彼女は、チェスの話しかしませんでしたが、その実、チェスの知識だけではなく、
・チームへの帰属意識
・目標を高く持つこと
・自身を持つこと
・粘り強く難題に取り組む
・失敗やストレスに対処するレジリエンス
なども教えていた、と考察しています。彼女は、生徒の対局を生徒と一緒に熱心に分析し、生徒のミスを率直に話し、どうしたら良かったかを理解させることにより、生徒の生活全般の取り組みまでを変えた、と考察しています。

 ここに挙げた教育者たちの成功例を見ると、非認知能力の育成は教室の中だけでなく、生活全般に関わる課題であるということがわかります。家庭環境、学校環境、そして社会環境、これらすべてが連携し、子どもたち一人一人の可能性を最大限に引き出すためのサポートを提供することが必要だと感じます。 
 さらに、非認知能力の育成は、教育者や親だけでなく、子ども自身が自分の力を信じ、自分の意志で行動を選択することが重要であることを忘れてはならないと思います。自律性や自己効力感を育てることで、子どもたちは自分自身の力で困難を乗り越え、成功に向けて進んでいくことができると思います。

 大学受験塾チーム番町では、生徒の学校のテストや模試の反省を通して、上記のチェスの先生と同じような反省をしています。たとえば、数学なら、どの教材の何ページをマスターできていればこの問題が解けたか。共通テスト型現代文なら、どのように考えれば、正しい選択肢にたどり着けたのか。これにより、生徒の非認知能力をも育むことができているのなら、素晴らしいことだな、と思います。

 また、本書には、『GRIT やり抜く力』の著者、ペンシルベニア大学心理学部のアンジェラ・ダックワース教授も登場します。 やり抜く力も、非認知能力の1つとされます。本書の引用している研究によれば、やり抜く力を強めるには
・学校への帰属意識
・能力は努力によって伸びる
・自分は成功できる
・この勉強は私にとって価値がある
といった信念が大切だとしています。

 

まとめ

 最後に、子どもの貧困問題はただの経済的な問題だけではありません。それは、社会的な環境、教育環境、家庭環境といったさまざまな要素が絡み合った複雑な問題であり、その解決には、それぞれの要素が結びついて動くことが求められます。そして、その中でも特に、非認知能力の育成に重点を置くことが、子どもたちが自分の力を信じ、自己の可能性を最大限に引き出すための一つのキーとなるのではないかと思います。

 これらの考察から、私は非認知能力の育成が子どもの貧困問題の解決に向けた重要な要素であると確信しています。そして、そのためには、教育者や親、そして社会全体が連携して、子どもたちが自己の可能性を最大限に引き出すことができる環境を作り上げることが求められると考えます。その環境とは、物質的な裕福さだけでなく、精神的な安定感や自己肯定感、適切なチャレンジと失敗からの復活力などを育む環境であるべきです。

 私たちは教育者、親、そして社会の一員として、子どもたちが自分自身の力を発揮し、自分の人生を積極的に切り開いていくためのサポートを提供すべきです。それには、教育者が非認知能力を育む教育手法を研究し、それを現場で実践することが必要です。また、親としては、家庭での教育やコミュニケーションを通じて、子どもの非認知能力を育む環境を整えることが大切だと思います。

 本書は、私たちすべてに対する一つの挑戦だと感じています。それは、子どもたち一人一人の可能性を信じ、その可能性を最大限に引き出すための環境を作り上げるという挑戦です。この挑戦に立ち向かい、一人でも多くの子どもたちが自分の可能性を信じて一歩を踏み出すことができるよう、私たちは全力で支えていくべきです。また、子どもたち自身に対しても、自分自身の可能性を信じ、その可能性を最大限に引き出すための挑戦を自分自身に課すことが重要だと感じます。

 そして、その可能性を最大限に引き出すことが、私たち一人一人がより豊かで充実した人生を送るための重要な鍵であると私は確信しています。私たちが自己の非認知能力を信じ、その力を最大限に引き出すことができれば、私たちはどんな困難にも立ち向かい、成功へと進んでいくことができるでしょう。

 私たちは、子どもたちだけでなく、私たち自身もまた、自己の非認知能力を信じてその力を最大限に引き出すための挑戦を受け入れるべきだと感じます。それが、私たちが子どもたちに対して提供できる最大の支援であり、また、私たち自身が自己の可能性を最大限に引き出し、より豊かで充実した人生を送るための重要なステップだと信じています。

 

日本の算数、数学教育への意外な評価 

 非認知能力とはあまり関係なさそうですが、意外な話。
 日本の算数、数学教育は、計算の基本的な反復が多い、といった批判を聞きます。しかし、『私たちは子どもに何ができるのか』でポール・タフ氏は、それはアメリカでより顕著で、日本では、生徒に自分で考えさせ、小グループやクラスでの話し合いが行われる、といった創造的な活動が多い、と述べています。
 まあ、日本にも、アメリカにも、様々な学校があり、それぞれ、どのような学校を対象とした調査なのかは、よく見極める必要があるのだと思います。

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

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【感想】自由(末續慎吾、ダイヤモンド社):日本記録保持者とコーチに学ぶ個別指導塾の師弟関係

 

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『自由』(末續慎吾)の書評、感想

 末續慎吾さんは、陸上競技のアスリートです。
 200mの20秒03は、いまも日本記録です。2003年、世界陸上パリ大会200mで銅メダル。日本人が200mというスプリント種目で銅メダルを獲ったのです。2008年、北京オリンピックでは、400mリレーのメンバーとして銀メダル。
 しかし、その直後、長年、心身ともに追い込んだ結果、心身がズタズタで、休養を余儀なくされたそうです。
 その1980年生まれの末續選手が、いまだに現役で選手を続けています。

 

勝ち負けからの自由

 2003年の世界陸上銅メダルの前から、2008年北京オリンピックのメダルまで、末續さんは、勝つことが「当たり前」という精神状態にあったそうです。そして、現在、それはおかしなことだった、健全ではなかった、不健康だったと思っているようです。勝負は勝つことも負けることもあるはずだ。

 「競技が楽しい」という感情より「勝っている自分が好き」という感情が圧倒し、負けを受け入れられないのも、不健康、いや「ある種の病気かもね」と述べています。

 学生も「大学受験で良い点を取るのが当たり前」「大学受験勉強が楽しい、より、大学受験で良い点を取っている自分が好き」という精神状態は、もしかすると、健全ではないのかもしれませんね。大学受験の模試で良い点を取ることもあれば、悪い点を取ることもある。そして、ごく一部の職業競技者を除き、陸上競技が「遊び」に過ぎないのと同じように、学問も、もともとは、有閑階級の「遊び」だった。大学受験生も、ある程度の「遊び」の気持ちが大切なのでしょう。

 

熟練者の勝負観

 2018年、末續さんは38歳で「マスターズ陸上」という、年齢別の大会に初めて参加します。参加した理由は「今でもかけっこが大好きで、いくつになってもかけっこしたい」から。超面白かったそうです。皆びっくりするほど「笑顔」だったから。末續さんより年上の人が、子供みたいに喜んだり、笑ったりしている。そして、変に緊張して、しかめっ面して、狭い世界でかけっこしている自分が恥ずかしくなったそうです。

 陸上競技も大学受験も、このように、それぞれの感情を持った人間が行っているはずで、そういった人間のやるスポーツ、大学受験を勝敗や記録だけを競うものにしてしまうのはどうなのだろう。

 

本番を最大限に楽しむためには?

 陸上競技のレース前に「自分の走りをしてきなさい」と言われる。大学受験の前に「落ち着いて」「自分の実力を発揮して」などと言われる。
 しかし、末續さんは、本番前にそんなことを言われるようでは遅い、と述べます。

”試合の時には完成していて、あとは本番のコントロールできない空気にまかせちゃう。まかせられるほど自分自身を本番までに仕上げられていないから、そういった言葉を呪文のように唱えなきゃいけないわけだよ”

”楽しむ以外のすべてのことは練習の時にやってしまうことが大事なんです。”

 かつて、塾長の生徒で「東大を受けるのが楽しみです」と言った人がいました。彼は、その年の東大文系数学の合格者平均が40点台のところ、60点台でした。受験の前の受験勉強で、末續さんが言う「楽しむ以外のすべてのこと」をしっかりやったのでしょうね。

 

休養を余儀なくされる

 2008年、北京オリンピックの後、末續さんは休養を余儀なくされ、地元の熊本に戻りました。
 「光」に慣れることから始めなければならなかったそうです。朝、いきなり目が光を受けるのは刺激が強すぎて、頭が痛くなるような状態だったそうです。「起きる」という行為自体もエネルギーを使うので、起きて立ち上がるのに2時間位かけたそうです。「廃人」はこの状態の一歩先にあるんだと思ったそうです。
 「才子多病」と言います。大学受験でいわゆる「偏差値」が高い人は、それだけ神経を消耗するのか、精神的に疲弊しやすい傾向があるように思います。日頃の心の持ちようと、あとは、しっかり寝ることでしょうね。

 

日本記録、メダルからの山の下りかた

 目標や夢を達成する過程を「山を登る」ことに例えましょう。すると、「山を下る」行為もあるわけです。登る前に、下ることも考える。登った後に、登りを振り返る。
 末續さんは、下りも含めて山の全体像であって、それは、本気で挑戦した人間しか知ることはできない、と述べています。

 大学受験も、合格までの「山を登る」過程だけではなく、合格、あるいは不合格のあとにあるもの、「山を下る」、「山の全体像」を見ることが大切なのでしょう。そして、本気で挑戦する。

 

新・根性論

 末續さんは「助力よりも負荷に目を向けてしまっていた」、「自分をどれだけ追い込むかだけを考えていた」、「結果、心身ともに壊してしまった」、と述べています。まずは自分で思っているよりももう少し時間をかけて、自分でやってみる。
 大学受験の勉強もそうで、まずは、失敗してみないと、自分にとって何が必要なのか、わからないですからね。次に、誰かに聞いてみる。より良い情報を収集してみる。「助力」を求める。最初から絶対解を求めたり、自分だけで答えを決めつけない。
 大学受験も、ひとりよがりでとんちんかんなことを言っている親子は多いです。自分で時間をかけてやってみようともしないし、情報を集めたとしても、その狭い視野で頭がガチガチに硬直してしまっている。

 

個別指導塾の師弟関係

 陸上競技の指導者と選手の関係は、個別指導塾の先生と生徒の関係に似ているでしょう。
 末續さんは、高校を選ぶ時、「僕が必ず強くする」と言った先生より「僕は何もわからないけど、君と一緒に陸上をやりたい。先生もいろいろ勉強するから。」と言った先生を選びました。
末續さんは、選手としての素晴らしい実績を持つ指導者が、選手それぞれの個性を無視して「自分と同じようにやることが正解だ」と言ってしまうことに抵抗があり、そのような選手は他にもいた、とのことです。

 ここで「個性」とはなんでしょう?性格か、それとも、競技者としての物理的な骨格の違いか。
 骨格の違いについては、世界陸上2001年エドモントン大会、2005年ヘルシンキ大会の400mハードル銅メダリストの為末大さんは、100m走で10”3~4までは「普遍」「型」だけでいい、としています。
 一方、末續さんは、そのレベルを超え、為末さんの言う「個別」の領域に入っていました。

 

 

 大学受験も同じで、学力や生活態度が「普遍」に届いていない生徒の場合、指導者が「普遍」を示してくれるのなら、変わるべきは指導者ではなく、生徒、保護者のような気がします。「普遍」に届いていないのに「個性」を主張している人たちが、けっこう多いような気がします。

 

個別指導塾の信頼関係

 末續さんは37歳の時、カール・ルイスの師のトム・テレツ氏に師事したそうです。個別指導の先生を変えたということですね。
 思うように走れなくて悩んでいた末續さんに、トム・テレツ氏は「君が過去どうだったかは、僕にはどうでもいい。今の君はきっと速く走れる。自分を信じなさい。」と言い、末續さんは「別にこの人の言っていることが全て間違っていても構わない」と思い、究極の師弟関係とは、このようなものだと思ったそうです。

 末續さんが一番言いたかったのは、「いかに誠実な姿勢でお互いを受け入れているか」ということのようです。それは、それでいいでしょう。

 ただ、大学受験の場合、指導者が間違ったことを言っていて、生徒がそれでも構わないと思っていると、大学受験には合格しないですよね。そして、このような姿勢の人は、進学校の下位層に多いと思います。世の中には、いろいろな人がいて、正論を納得する人もいれば、詐欺師を信用する人もいます。

 

企業秘密

 現在の末續さんは、お世辞にも、日本トップレベルの競技力とは言えませんが、それでも練習メニューは、企業秘密だそうです。ただし、(笑)がついているので、どこまで本気で秘密なのかはわかりませんが。

 

『自由』(末續慎吾)の目次

はじめにー勝利至上主義のその先の話

1.「勝ち負け」の話
 勝つだけって本当に正しいこと?
 こじらせアスリートー「勝ち負け」からの自由
 レジェンド・オブ・マスターー熟練者の勝負観
 本番を最大限楽しむためには?
 是、勝者の条件也ー「自分より強い選手」に挑む条件
 かけっこの世界ー苦しみの先にあったもの

2.「夢」の話
 本気で挑戦するということ
 真剣な僕ー突然、目標が消えてしまった時
 真剣の意味
 新・根性論ー根性とプライドの正しい持ち方
 メダルの対価ープロとアマの違いの話(上)
 1000円ープロとアマの違いの話(下)
 メダリストは1日にして成らず

3.「人間関係」の話
 「良い」指導者の条件
 上下関係と並行関係ー指導者の位置関係
 パワハラシンキング
 究極の信頼関係ー心情を感じる感情の情報
 知らない関係は大人の嗜みー主観と客観のバランス

4.「個性」の話
 「個性がないんです(涙)」ー個性の見つけ方
 走らずして、走るのだー「極める」とは
 スポーツの嗜みースポーツをやる意味ってなんですか?
 「理想の自分」は変化していく
 今の時代を少しラクに生きる考え方
 流されちゃいましょう 

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

大学受験塾チーム番町 市ヶ谷駅100m 東大卒の塾長による個別指導

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【書評・感想】キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実(KADOKAWA)

 

大学受験塾チーム番町 市ヶ谷駅66m 東大卒の塾長による個別指導

東大のこと、教えます(プレジデント社、小宮山宏)

東大教師が新入生にすすめる本(文春新書)

東京大学文系・理系数学 傾向と対策と勉強法

(千代田区立)麹町中学校の型破り校長 非常識な教え(工藤勇一、SB新書)

 

【書評】灘校と西大和学園で教え子500人以上を東大合格させたキムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実(KADOKAWA)【感想】

 

キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』の書評、感想

2021年4月発売。

キムタツ先生は本名は木村達哉先生です。
生徒の大半が東大、京大、国立医学部に進学する灘中高で教鞭をとられ、2021年3月に退職されました。英語教師集団「チームキムタツ」を率いられています。

 

『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』の裏テーマは東大理Ⅲ佐藤ママ?

 あくまで塾長の推測ですが、お子さん4人が全員東大理Ⅲに進学した、佐藤ママさんへ反論書なのではないかと思います。
 『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』の中でも「特殊な成功例を、さも誰にでもあてはまるように話し、それを信じてしまう人が後を絶ちません。」「(稀に親の言うことを素直に聞く子供がいて)そういう親が書いた本もあります。親はこういう指示をすべきというような本が。」「『子供をこうやって東大に入れた』というような本」といったような表現が散見されます。
 塾長も、佐藤ママさんの家庭は特殊で、『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』に出てくるような家庭のほうが大多数派で、キムタツ先生の主張のほうが、一般性、汎用性が高いと思います。

 

東大に入る子は本当に本書のようなのか?

 塾長の経験上、ご家庭が『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』のようであれば、おおむね、受験は大成功します。
 逆に、『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』の逆を行っているようなご家庭は、受験の技術うんぬん以前に、親子の精神的な幼さが原因で受験がうまく行かないように思います。

 

勉強し続ける子の親とは?

 『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』では、「勉強しなさい」という言葉には、全く効果がなく、むしろ、逆効果だとしています。これは現在、まともな指導者の中では、通説と言っていいと思います。キムタツ先生以外にも、多くの指導者がこのようにおっしゃいます。

 キムタツ先生は、3つの提案をされます。以下のような環境は、良くないとしています。

1.幼いうちにスマホやゲーム機を与えられている環境
2.自宅にあまり本がないような環境
3.リラックスして生活できないような環境

 キムタツ先生は、ゲームに対し、かなり否定的のようです。子供が任天堂との勝負、ゲーム制作者がプレイヤーを熱中させようと、様々なテクニックを用いて中毒性を持たせるのに、勝てるわけがない、と。キムタツ先生は、自分のお子さんには、ご家庭ではゲームをさせなかったそうです。
 たしかに、ケームを一切しないのに越したことはないかもしれません。
 しかし、ゲームをやりたい、やりたい、やりたいと思っている子供に、一切ゲームを許可しない、というのは、バランスを欠く意見かと思います。子供の頃の我慢が、大人になってから、歪んだ人格として現れるということはあると思います。これは、「勉強しなさい」と言ってしまうような大人の、裏返しの姿ということもできると思います。また、実際に、適度にゲームをしつつ、受験にも成功している人は、かなり多くの割合を占めるはずです。さらに、『ドラゴンクエスト』などのゲームを通して、「受験も同じようにやればいいんだな」という、シミュレーションをすることもできると思います。
 このゲームに関する記述については、ちょっと偏った意見で、お子さんの教育上も危険をはらんでいるかな、と思います。

 自宅に本がたくさんあるような環境のほうがいいのは、当たり前ですね。しかし、大人がただ「本を読め」と言っても子供は本を読まないので、キムタツ先生はある取り組みをしており、それが本書に書かれています。

 リラックスできる家庭とは、どのような家庭でしょうか?キムタツ先生は、本書の冒頭から「勉強しなさい」と言わない、ということを書かれています。「~しなさい」と言わない。キムタツ先生によると、灘の生徒に聞くと両親が「放っておいてくれるのでありがたい」ということが多いそうです。塾長の経験からも、親が口うるさい場合、たいてい、ダメですね。当塾は、そもそも、保護者面談を行いませんし、保護者の方からのクレームも受けつけません。不都合があれば、生徒自身が言えばいいことで、保護者があれこれ言っているようではダメなのです。
 『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』(英知出版、著者はジャーナリストだが、巻末に引用論文などがたくさん載っている、かなりまともな本)の第4章「ストレス」には、「研究者らの結論によれば、環境による影響のなかで子供の発達を最も左右するのはストレスなのだ。」という記述があります。ストレスが子供の心と体の健全な発達を阻害する度合いは、従来の一般的な認識よりもはるかに大きい、と。そして、子供にとって、最も大きい環境は、家庭です。

 

英検の先取りは意味がない?

 キムタツ先生は英語の先生です。『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』では、英検の先取りは意味がない旨を書いています。大人になれば普通のレベルのことを、幼いときに達成しても、大して意味はない、というのは塾長もキムタツ先生と同意見です。また、キムタツ先生によると、小学生で英検2級を取ったが、高校になったら勉強がつまらなくなって辞めてしまい、どこの大学にも入れなかった、という話は、受験業界には多いそうです。塾長の経験では、年少にして英検1級を取ったことを、保護者がFaceBookでさり気なく自慢していていて、まあまあの進学校に合格したものの、その他、数学、国語の成績が壊滅的な人がいました。また、かなり面倒見が良い高校に通い、学校の授業の内容が非常に豊富なのに、英検のための塾に通った結果(英検くらい、自分で勉強して合格しろよと思いますが)、戦力の分散という戦略のタブーの基本を犯し、英語も含め、全体的に成績が悪い人もいました。

 

東大に合格する勉強体質とは?

 『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』では、勉強体質とは、「自分で楽しいことや新しいことに出会うと、調べてみようかな、知っておこうかな、という気持ちになる体質。自分のレベルをあげようという体質。」のことだそうです。これについては、東大生は、机に向かっている時間だけでなく、日常自体が勉強だとか、世の中をみる解像度が違う、とか言われますね。
 世界陸上2001年エドモントン大会、2005年ヘルシンキ大会の400mハードルで銅メダルを獲得された為末大さんがYouTubeチャンネル「為末大学」を開設しています。2021年9月29日に「与えすぎて弱くなるってどういうことですか?」という動画をアップしています。

 為末さんは、一番の才能は「こんなことをしてみようかなと思いつく」「何を見ても好奇心がワーッと湧いてくる感覚」といったもので、これらが後天的に最も与えにくい、と語っています。キムタツ先生の「勉強体質」と通ずる物があると思います。

 

中高一貫校のデメリットは?

 中学受験の塾がメディアのスポンサーになっているからなのかはわかりませんが、中学受験、中高一貫校のデメリットが語られることは少ないように思います。
 『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』では
・入った段階ですでに疲弊しまくっている生徒が多い
・ゆっくりやるのが合っている子が、中高一貫校の速いスピードについていけない
・公立に転校する子もいる
といったことを挙げられています。
 塾長は、高校入試を経ないがために、中高一貫校の下位層は、普通の公立中学レベルの内容もマスターできていない人だ、ということを挙げておきたいと思います。公立中学レベルのことをマスターできていないのだから、当然、大学受験には大きなハンディです。なんのために中学受験をしたのでしょうね。

 

東大に入る子の特徴

 『キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実』では、以下を挙げています
1.読書ができる子
2.勉強体質が身についている子
3.中学時代の内容が頭に入っている子
4.精神的に安定している子
5.がり勉でない子

 1,2,3,4に関しては、上記で論じました。精神的に安定ということは、家庭でリラックスできるということですね。
 5.については、キムタツ先生は、机に向かうだけでなく、「自分が人生でやりたいことを見つけるために、経験値を上げる」「学校と自宅の往復しかしていないような子では、自分のやりたいことが見えてきません」「時間を見つけて本を呼んだり映画を見たり、どこかにでかけたりする子ほど成績がいい」とおっしゃっています。
 普通の感覚では、机にしがみつくことができれば、まあ、たいしてものですよね。ただ、キムタツ先生は、多くの場合、「机にしがみつかされている」と指摘しています。また、ペンシルベニア大学心理学部のアンジェラ・ダックワーズ教授の著書『GRIT やり抜く力』でも、将来、やりたいことを見つけるために、なるべく多くの経験をすることが大切、といったことが書かれています。オリンピックの金メダリストなども、意外にも、最初から専門種目を選んでいたわけではなく、色々なことをやってみた後に専門種目にたどり着いたケースも多いようです。将来やりたいことがあれば、当然、勉強をやり抜く力が高まりますよね。

 

東大に合格するには考える力を身につける

 キムタツ先生が『ドラゴン桜』関係で、有名な編集者、佐渡島庸平さん(灘→東大)と話していた時、佐度島さんが常に「なぜですか?」と尋ねてくることに気づいたそうです。そして、それは、灘のよくできる生徒と話しているときも全く同じことが言えるそうです。
 逆に、進学校の下位層には、数学や理科の授業で支離滅裂な答案を書き、「なぜそうなると思った?」と尋ねても、答えられない人が多いです。数学や理科を、理解せずに、解き方を丸覚えする、数値を当てはめる科目だと履き違えてしまっている。おそらく、中学受験、高校受験を通して身についてしまった悪習慣なのでしょう。当塾でも、ご家庭で常に「なぜ?」「それってそもそも何?」と問いかけるよう、おすすめしています。

 

東大脳の作り方(平凡社新書)

 

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

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【感想・書評】脳科学は人格を変えられるか?(文春文庫):大学受験に活かせる?

 

大学受験塾チーム番町 市ヶ谷駅66m 東大卒の塾長による個別指導

成功する練習の法則 最高の成果を引き出す42のルール

 

【感想・書評】脳科学は人格を変えられるか?(文春文庫):大学受験に活かせる?

 

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『脳科学は人格を変えられるか?』の著者

 著者は、オックスフォード大学感情神経科学センター教授のエレーヌ・フォックス先生です。女性です。

 

『脳科学は人格を変えられるか?』の内容

 単行本は2014年発売。2017年に文庫化されたようです。大学の研究に基づき、巻末に、引用した論文がたくさん載っている、ちゃんとした本です。本文の中でも多くの実験が引用されています。題名に「人格」とありますが、主に、悲観と楽観について、多くのページが割かれています。

 

悲観脳と楽観脳と大学受験

 ポジティヴな人とネガティヴな人がいます。まあ、人格の一部ですね。これを変えられるかどうか。
 あまりにも楽観的だと、危険に対して危険を感じないので、最悪の場合、死んでしまう。したがって、ある程度の悲観は、生きるために必要です。しかし、悲観的すぎると、生きづらい。大学受験でも、ネガティヴすぎるがゆえに、うまくいかない人は、ある程度の割合でいるようです。一方、ポジティブすぎるがゆえに、危機感を感じず、大学受験の勉強に身が入らない、という人もいるでしょう。
 本書では、ネガティヴなものに注目する脳の回路を「レイニーブレイン(悲観脳)」、ポジティヴなものに人を向かわせる脳の回路を「サニーブレイン(楽観脳)」と呼んでいます。

 

大学受験も遺伝子のせい?

 大学受験を含め、人間のおおむねのことには、遺伝子が関係することは否定できないでしょう。本書でも、それは否定していません。一方、遺伝子ですべてが決まるわけではありません。本書では、悲観と楽観が生じる要因を
・遺伝子
・どんな出来事を経験するか
・世界をどのように解釈するか
の複雑な絡み合い、としています。

 本書では、遺伝子について解説するために、高校の生物の教科書のような説明もされています。1953年にワトソン、クリックがDNAの二重らせん構造を発見した話から、ヌクレオチドと呼ばれる4つの化学塩基の話。
 また、やはり内容は高校の生物の教科書に出てきますが、「エピジェネティクス」という話も出てきます。仮に、同じ遺伝子を持っていても、環境次第で、遺伝子がオンになったりオフになったりする。それは、RNAポリメラーゼ、メッセンジャーRNA、プロモーター、DNAのメチル化(遺伝子をオフにする)といった、やはり大学入試の生物で出題されそうなメカニズムによって行われます。
 したがって、大学受験なども、すべてを遺伝子のせいにして言い訳をするのは、建設的ではない考え方だと思います。「脳科学で人格を変えられる」という信念で、ありとあらゆる、できる限りの最善を尽くしたいものです。

 

脳が変化する力:大学受験で成績が伸びる原理

 この手の脳科学の本で、有名な話に「ロンドンのタクシー運転手」の話があります。
 ロンドンのタクシー運転手は、レベルが高く、ロンドンの複雑な道を記憶して、試験を突破した人しか、なることができません。ロンドンのタクシー運転手は、脳の海馬(記憶や空間学習能力に関わる)が肥大しているそうです。

 このように、以前考えられていたのとは大きく異なり、近年は、脳はかなり変化することが知られてきています。

 これと同じ原理で、病的にネガティヴすぎる人の脳を、変化させることができるのではないか、という研究が進んでいるようです。物事のポジティヴな面に注目し、ポジティヴだと意識し続けることによって、脳の回路が変化することは、研究で実証されているそうです。その他、似たようなことについて、様々な研究が進み、可能性が生まれているようです。つまり、脳科学で人格を変えられる可能性が示唆されている、ということですね。

 現在の自分を少し超える強度のトレーニングを続けることにより、脳に効果的に神経回路を構築し、より、物事の上達、学校での勉強、大学受験に役立ちそうな文脈で書かれた本に

超一流になるのは才能か努力か?(文藝春秋)

があります。

 

マインドフル瞑想を大学受験に活かす可能性

 本書では、マインドフル瞑想が脳を変化させるかについて、仏教僧の研究などが載っています。やはり、集中したり、気が散るのを防いだりする脳の回路が、たしかに強くなっていたそうです。また、感情のコントロールを助けるいくつかの重要な領域が高密度になっている、つまり、ニューロンが増加していたそうです。そういう人は、当然、大学受験にも強いですよね。さらに、免疫機能にもプラスの改善が見られたそうです。また、本書のテーマである、悲観脳から楽観脳への変化も見られた、つまり、脳科学で人格を変えられる可能性が示唆されたそうです。

 マインドフル瞑想により、脳が変化することにつき、イェール大学医学部精神神経科卒業の医師で、先端脳科学研究に携わり、論文も多数、執筆されている久賀谷亮先生の著書、世界のエリートがやっている最高の休息法(ダイヤモンド社)では、さらに多くの変化が書かれています。

 

『脳科学は人格を変えられるか?』の感想、書評

 上記のように、近年、脳の可塑性(変化できる)について、大学などの研究による科学的根拠に基づき、物事の上達、トレーニングといった面から書かれた本や、マインドフル瞑想といった面から書かれた本があります。
 本書は、脳の可塑性につき、病的にネガティヴな人を改善できないだろうか、というテーマで書かれています。病的にネガティヴで、生きにくさを感じている人は、世界人口の数%程度にはなるとは思うので、この分野がより一層発展すればいいなと思います。
 また、たとえば、大学受験の医学部志望者に「物事ができるようになるということは、脳にそのような神経回路が構築されること」と言っても、ピンと来ない場合があります。本書のような、遺伝、脳の可塑性などの基本的な知識について、正確な知識が世間で広まると、世間一般の人々の物の見方、考え方もかなり変わるのではないかと思います。

 

『脳科学は人格を変えられるか』と大学受験

 大学受験の勉強は長期間に及ぶ膨大な学習であり、忍耐力、集中力、自己コントロールといった資質が求められます。これらの資質は、本書で論じられている通り、脳の機能と密接に関わっています。例えば、前頭前野の発達は自己制御能力と関連することが知られています。大学受験生が計画的に勉強し、誘惑に負けず努力を継続できるかどうかは、脳の発達状態に影響されると言えるでしょう。

 また、ストレス耐性も重要な資質です。大学受験の勉強はストレスフルな状況を伴いますが、扁桃体などの情動に関わる脳部位の反応性の個人差が、ストレス対処能力の差につながることが示唆されています。脳科学の知見を応用し、ストレス軽減のための効果的な方法を見出すことができれば、大学受験生のメンタルヘルス向上に役立つかもしれません。

 さらに、『脳科学は人格を変えられるか?』では、マインドフルネス瞑想によって意図的に人格特性を変容させられる可能性が論じられています。集中力や情動制御、ストレス耐性の向上にマインドフルネスが有効だとすれば、大学受験の勉強に取り入れることで学習効率を高められるかもしれません。

 一方で、本書の知見は大学受験の競争のあり方に警鐘を鳴らしているようにも読めます。遺伝と環境の相互作用で人格の個人差が生じることを考えれば、大学受験の競争に過度に偏重し、狭く限定された能力だけを評価することには問題があるように思われます。多様な人格特性を包摂し、個人の可能性を多面的に評価する大学入試制度のあり方が、脳科学の知見からも支持されるのではないでしょうか。

 また、脳の可塑性は青年期以降も持続することが本書で強調されています。大学受験期の学習によって発達した能力が、その後の人生にどのような影響を及ぼすのか。大学入学後も個々人の成長を支え、可能性を引き出す教育の必要性を、脳科学は示唆しているように思われます。

 このように、『脳科学は人格を変えられるか?』の議論は、大学受験生の資質、理想的な大学入試制度、望ましい大学教育のあり方など、大学受験に関わる様々な問題を考える上で重要な示唆を与えてくれます。大学受験の競争のみならず、人の可能性をいかに育むかという教育の根本的な問いについて、脳科学の知見から洞察を得ることができるでしょう。

 

 

『脳科学は人格を変えられるか』とハイデガー

 ハイデガーにとって、人間の本質は「現存在 (Dasein)」という概念で捉えられます。現存在とは、自らの存在を問うことができる存在者のことであり、世界の中に存在しながら、同時に世界を理解し、自らの可能性に向けて実存する存在です。
 脳科学が人格を変えられるかどうかを考えるためには、まず人格とは何かを考える必要があります。人格とは現存在の在り方そのものと言えるでしょう。つまり、人格とは単に脳の状態によって決定されるものではなく、世界との関わり合いの中で形成される現存在の存在様式なのです。
 たしかに、脳科学の知見によって、脳の働きと人間の行動や思考との関係が明らかになりつつあります。しかし、脳はあくまでも現存在が世界の中で存在するための一つの条件に過ぎません。現存在は脳を持つことによって世界を理解し、自らの可能性を実現していきますが、脳そのものが現存在の在り方を決定しているわけではないのです。
 また、ハイデガーは現存在の本来性 (Eigentlichkeit) と非本来性 (Uneigentlichkeit) という概念を提示しています。本来的な在り方とは、現存在が自らの可能性に向けて決断し、自らの存在を引き受けることです。一方、非本来的な在り方とは、世間一般の価値観に流されて、自らの可能性を忘れてしまうことです。脳科学が人格を変えるということは、現存在を非本来的な在り方へと導く可能性があるということです。
 しかし、大切なのは、現存在がどのような状況に置かれようとも、常に本来的な在り方を選択する可能性を持っているということです。たとえ脳科学によって人格が操作されたとしても、現存在はそれを超えて、自らの存在を問い直し、本来的な在り方を取り戻すことができるのです。
 ハイデガーは技術の問題についても深く考察しています。現代の技術は、存在者を単なる道具として扱い、その本来の在り方を隠蔽してしまう危険性を孕んでいます。脳科学もまた、人間を単なる操作可能な対象として見なす技術の一つになりかねません。しかし、技術の本質は人間の運命に関わる問題であり、我々はその本質を見極めながら、技術と向き合っていく必要があるのです。
 以上のように、脳科学が人格を変えることは可能かもしれませんが、それは現存在の本質を根本的に変えるものではありません。現存在は常に自らの存在を問い直し、本来的な在り方を選び取る可能性を持っているのです。我々は脳科学の知見を活用しながらも、その限界を認識し、現存在の存在論的な意味を見失わないようにしなければなりません。そのためには、技術と人間の関係を根本的に問い直していくことが求められているのではないでしょうか。

 

 

『脳科学は人格を変えられるか』とデリダ

 脳科学の進歩は、私たちの人格のあり方を根底から揺るがすものとなるのでしょうか。脳の働きを操作することで、人格を自在に変えられるようになるのでしょうか。そうした問いは、私たちの存在の根幹に関わる深い問題を孕んでいます。
 確かに、脳科学の知見は日進月歩で深化しています。しかし、だからと言って、脳科学が人格そのものを自在に操れるようになるとは限りません。なぜなら、人格とは脳の働きだけで決まるものではないからです。むしろ人格とは、他者との関係性の中で、絶え間なく構築され続けるものでしょう。
 私たちのアイデンティティは、決して確固たるものではありません。むしろ自己とは、差延の運動の中で生成し続けるものなのです。他者からの呼びかけに応答するたびに、私たちは新たな自己を形作っていきます。
 たとえ脳科学が脳の働きを制御できるようになったとしても、その制御が及ぶのは自己の一部でしかないでしょう。なぜなら、自己とは脳だけで構成されるものではないからです。身体や環境、他者との関係性が織りなす複雑な動態の中で、私たちの人格は形作られているのです。
 むしろ問題は、脳科学が人格を操作可能なものと見なす言説が生み出す効果でしょう。人格を脳の働きに還元する言説は、私たちの自己理解を大きく歪めてしまう恐れがあります。自己を所与のものと見なし、その本質を脳に求めてしまうのです。
 しかし、自己とは所与のものではありません。私たちは、絶え間なく自己を生成し続ける存在なのです。他者からの呼びかけに応答し、葛藤し、揺れ動きながら、新たな自己を紡ぎ出していくのです。そのような自己生成のプロセスを無視して、人格を操作可能なものと見なすことは、私たちの存在を根底から脅かすものと言えるでしょう。
 脳科学は、私たちの人格のあり方を問い直す重要な契機を提供してくれています。しかし同時に、その知見を絶対化することの危うさも示唆しているのです。人格を脳の働きに還元する言説は、脱構築されなければなりません。
 私たちに求められるのは、脳科学の知見を批判的に吟味しつつ、自己と他者の関係性を絶え間なく問い直していくことでしょう。自己を所与のものと見なすのではなく、生成の只中にある存在として捉え直すこと。そうした自己理解の転換こそが、脳科学がもたらす問題に立ち向かうための、最初の一歩となるはずです。
 脳科学の知見を絶対視することなく、自己と他者の関係性を問い続けること。そこにこそ、人格の真の意味を見出していく可能性が開かれているのではないでしょうか。

 

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

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【感想・書評】(千代田区立)麹町中学校の型破り校長 非常識な教え(工藤勇一、SB新書)

 

大学受験塾チーム番町 市ヶ谷駅66m 東大卒の塾長による個別指導

キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実(KADOKAWA)

青学駅伝選手たちが実践!勝てるメンタル(KADOKAWA)

 

【感想・書評】(千代田区立)麹町中学校の型破り校長 非常識な教え(工藤勇一、SB新書)

 

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『麹町中学校の型破り校長 非常識な教え』の感想、書評

2019年9月6日発売。SB新書。

 2020年3月まで千代田区立麹町中学校(大学受験塾チーム番町から1.2km)の校長を務められた工藤勇一先生の著書です。
 工藤勇一先生は、山形県鶴岡市生まれ。東京理科大学理学部応用数学科卒業。山形県で中学の数学教諭を5年間務めた後、東京に移ってこられたそうです。その後、学校の現場のみならず、区や都の教育委員会の役職を歴任され、2014年に千代田区立麹町中学校長に就任されました。麹町中では、本書で書かれているような、各種の改革をされました。
 2022年現在は、私立の横浜創英中学・高等学校校長をされています。

 

工藤勇一先生の評判は?

 このキーワードで検索する方が一定数いらっしゃるので、リクエストにお応えしたいと思います。
 当塾には、麹町中で工藤勇一先生と在籍が重なっていた生徒が複数おります。おおむね、評判はいいのではないかと思います。
 ただ、著書や、ネット記事に書かれているようなことは、あまり保護者や生徒に向けては、発信されていなっていなかったようです(笑)。だからか、保護者や生徒には、工藤先生のお考えが、あまり浸透していないようです。
 たとえば、「工藤先生時代は良かった」と言っていた保護者が、工藤先生の教育方針に反するような過保護過干渉な言動をしていた結果、お子さんのほうが、かなりの進学校に行ったにも関わらず、テストで学年最下位に近い点数を取り、当塾に来たものの、親子でおかしな言動をくり返し、一度目の数学のテストで点を取れなかっただけで母親が退塾を決め(子供の方も、中学レベルの内容も、もう一つ理解していなかったし、そもそも、試験範囲でない部分を教えてくれと頼まれたことが多かった
)、退塾時の授業料も滞納した、といったこともありました。

 

宿題はいらない

 そもそも、宿題はなんのために存在するのでしょうか?
 脳科学では「脳は生存に不可欠なこと以外は忘れる」ということになっています。勉強を「生存に不可欠」だと理解していれば、宿題を出さなくても勉強するでしょう。逆に、宿題を出したところで、「生存に不可欠」だと思っていなければ、「単なる作業」となり、内容をマスターできないでしょう。
 また、世界陸上400mハードルで銅メダル2回の為末大さんは、「自分の人生を生きているという感覚」「何かを見てワーッと好奇心が湧いてくる」が一番の才能で、最も後天的に与えにくい、と語っています。先生が細かく範囲を指定した宿題を言われた通りにこなす。「自分の人生をいきているという感覚」とは正反対ですよね。また、人から強制されて勉強しているようでは、本来あるべき好奇心も、だんだん薄れていくでしょう。
 そして、自宅で勉強することを、自分で決めずに、先生が決めてしまうから、「主体性」「自己管理力」「自分の状況を把握する能力」「自分の理解度を把握する能力」といったものが育まれないのではないでしょうか。

 教育がうまくいっていない家庭ほど、表面的に「宿題を出してくれ」と言ってくる傾向があるように思います。逆に、宿題など出さなくても、塾長の生徒は、東大、国立医学部に合格するのに、全く困っていません。
 学校も塾も家庭も、「目的」と「手段」を取り違えている。また、家庭の「子供が机に向かっている」という「表面的な安心感」のニーズを満たすために宿題を出す。そんな「表面的な安心感」を欲するような、非論理的な家庭が、受験という理性が必要な勝負でうまくいくわけがないですよね。

 

わかっていることはやらなくていい

 テスト勉強、受験勉強は「できていないことをできるようにした」時に、成績が上がります。
できていないことにチェックをつけ、そこだけくり返せばいいのです。
 やはり、できていることを宿題に出されるのはムダですよね。

 

社会に適応する力、非認知スキル

 非認知スキルとは、課題発見力、課題解決力、挑戦意欲、といった、ペーパーテストでは計測できない能力のことです。
 『麹町中学校の型破り校長 非常識な教え』では、「社会に出たときにしっかり生きていける力」として、非認知スキルを語っているようです。つまり、非認知スキルとペーパーテストを二項対立的に語っているようです。
 しかし、非認知スキルが学歴に大きく影響することは、ノーベル経済学賞も受賞したヘックマン教授らの研究で明らかになっています。それは、挑戦意欲、自分の状況を把握する力、自分の理解度を把握する力、やり抜く力、といった非認知スキルが高いほうが、ペーパーテストの点数も高くなるのは当然ですよね。
 当塾の非認知スキルの解説ページはこちら。

「学歴」にも大きく影響する「非認知能力」とは?

 大学受験塾チーム番町は、本書の論調とは異なり、仮にペーパーテストで点数を取ることを第一に考えても、非認知スキルを育むことが大切だという考え方です。

 

学びとはカリキュラムをこなすことではない

 早期の英語教育、STEM教育を強制すると、子どもの主体性、意欲を奪うことになりマイナス、というのは、同じ意見です。お子さんに色々なことに触れてもらい、きっかけを作るくらいのことはいいでしょう。しかし、お子さんが、やりたくもないことを強制すると、上記のように「自分の人生を生きている感覚」「何かを見て好奇心がワーッと湧いてくる」といった一番の才能が失われてしまうと思います。
 また、高校生にもなって、塾に親が出てくるような家庭は、だいたい成績が悪いか、仮に最初はよくても、だんだん下がります。

 

一斉授業の非効率さ

 工藤先生は、一斉授業ではなく、ひとりひとりのモチベーションを優先した、個別最適化した授業、常に学び合いながら問題を解決していく双方向の授業を理想と考えているようです。1クラスに何十人もいる中学校では、なかなか難しいですよね。
 大学受験塾チーム番町は個別指導塾です。授業内容も塾生と話し合い、また、塾生との双方向性の授業を行っております。

 

時代遅れ

 塾長も、古文、漢文はほんのちょっと学ぶくらいでよく、大学受験のメイン科目にするのは、いかがなものか、と思います。おそらく、ほとんど、ほとんどの日本人は、古文、漢文を学ぶことにより、新たな付加価値を生み出すことはできないだろうからです。ほんのちょっと学んで、興味を持った人が、大学で学び、研究者に慣ればいいと思います。論語などは、現代語訳で学べばいいと思います。
 ただ、ヨーロッパのエリートなども、以外に、ラテン語など、役に立たなそうな時代遅れなことを学んでいるようです。なんなのでしょうね。

 

縦割りの限界

 工藤先生は、教科ごとの縦割りの限界を感じているようです。
 大学受験塾チーム番町では、塾長がすべての科目を指導しています。したがって、縦割りの弊害がありません。数学で指数関数が出てきたら、「何も対策をしないと、感染症の感染者数は指数関数的に増加するんだよ」と、生物学と絡めた話をすることが出来ます。微積分を学ぶときは、物理の教科書を見せながら、座標を微分すると速度に、速度を微分すると加速度になることや、面積を求めることと物理学と近代文明の関係などの話をすることができます。有機化学でピクリン酸が出てきたら、日本海海戦で日本が完勝した原因の1つであったことを話すことが出来ます。
 また、受験になると、各科目で「時間」という資源の奪い合いが始まります。受験というものは、各科目の総合点で合否が決まるのに、科目間の縦割りで、柔軟に苦手科目の対策をすることは出来ない。
 「いかなる部分最適も全体最適には勝てない」(P.F.ドラッカー)。受験は、全科目の合計点の勝負です。1人の指導者が全科目を指導すれば、全体最適が達成されます。

 

大人の成功体験の押しつけ

 『麹町中学校の型破り校長 非常識な教え』では紙の辞書へのこだわりの話ですが、先生にしろ、保護者にしろ、自分の成功体験を押しつける人がいます。サンプル数1の何の一般性のない話を人に押し付ける。その時点で、その人の知性の欠如が推し量られますね。
 大人は、子供に「勉強しなさい」と言う前に、自分が勉強しなければなりません。たとえば、本書を読むなど。

 

勉強は要領をつかむまでが勝負

 勉強は要領が大切だというのは、そうだと思います。
 ただ、『麹町中学校の型破り校長 非常識な教え』で挙げられている例は、「読むだけで覚えられる」「線を引いたら、もっと覚えられる」と、記憶の方法としては、やや非科学的な方法が語られます。工藤先生自身が、先述の「大人の成功体験の押し付け」をしているのは、残念です。
 現在の脳科学では、答を見ない状態で答えられるようにする「出力法」をすると、脳が「この知識はこんなに使う、生存に不可欠な知識なのか」と判断し、記憶に残りやすいとされます。また、ひたすら復習すると、やはり、生存に不可欠な知識だと判断し、記憶に残りやすいようです。

 

麹町中で配る、手帳を使う

 大阪の普通の公立中学の陸上部で、7年間に13回の日本一を達成された、原田隆史先生という方がいらっしゃいます。原田隆史先生は「成功は作るもの」「成功は技術」とおっしゃいます。そして、その方法を書籍で紹介しています。
 その方法の一つに「日誌」があります。「日記」と「日誌」は異なります。「日記」は「日々の出来事をつれづれなるままに書くもの」。「日誌」は、スケジュール表に予定を書き込み、1日の終りにできたかできなかったかを振り返るためのツールです。1日1日こなすべきことをこなし、1日1日成長することをくり返す。そうすると、何年も後には、大きく成長しています。塾長の過去の生徒にも、毎日日誌を書き、とある上位進学校の下位層から、京大大学院にトップ合格、国家公務員試験総合職で経済産業省に合格、という人もいました。
 麹町中学校では、手帳を、スケジュール管理に使う目的で配っているそうです。また、本書では、学習計画のために手帳を使うことをオススメしています。
 また、日誌や手帳といったものをつけることによって、「自分の状況を把握する」といった「メタ認知能力」を鍛えることができるというのも、同意見です。

 

「ルールを守らせる」に必死な大人

 工藤勇一先生の口ぐせの1つに「目的と手段を履き違えるな」というものがあります。この項でも、問題の本質を見つめることの大切さが述べられます。
 この項では「置き勉」、つまり、学校に教科書を置いていくことの禁止について語られています。工藤勇一先生は若手時代、「置き勉禁止」に疑問を持っておられたそうです。実は、塾長も中学時代、学習委員会に所属しており、「置き勉禁止」を守らせる側でした。しかし、塾長自身も、なぜ置き勉がいけないのか理解できず、「置き勉禁止」に反対していたことがあります。
 また、生徒に対してではなく、先生自身が、ルールを守ること自体が自己目的化するケースも多いようです。たとえば、まずまずの進学校の数学の授業で、教科書を使わず、自作のプリントを作ること自体が自己目的化した結果、教科書と教科書準拠問題集を使った授業のほうが遥かにマシ、というケースは、日本全国で多いのではないでしょうか。

 

どこまで厳しく叱ればよいか

 工藤先生は、これも「何を目的として子供を叱ろうとしているんだっけ?」と冷静に考えることによって解決するとおっしゃいます。
 『麹町中学校の型破り校長 非常識な教え』でも「叱る優先順位を決めれば、叱る頻度が減り、大人も子供も不要なストレスを抱えなくてすむ」としています。他の著書では、一番の優先順位は「命」だろう、としています。
 ただし、工藤先生は、生徒がかかとを潰して上履きを履くことは、別にいいだろう、と思っているようです。しかし私は、そのあたりから、きちんとすることが、全てに通じると考えていて、この件については工藤先生に反対です。上記の原田隆史先生も、同じようにおっしゃるはずです。

 

多数決に頼らない生徒に育てる

 日本国憲法では、直接民主主義を3つの場合に限っています。
・憲法改正の承認の是非を問う国民投票
・最高裁判所裁判官の国民審査制
・地方特別法の住民投票
 これは、憲法学では、単純に多数決で決めるのではなく、選挙で選んだ議員に十分に話し合ってもらい、少数者の人権を尊重するため、とされます。塾長の小・中・高時代の担任の先生で、1人だけ、単純に多数決で決めるのではないことを指導されていた先生がいらっしゃいました。本書でも、少数派の意見を尊重することが述べられています。

 

麹町中の改革、固定担任制をやめる

 麹町中では、クラスの固定担任制をやめました。
 進学校の下位層の生徒に多く見られる特徴の1つは、主体性に欠け、他人のせいにする傾向があることです。「うちの担任は頼りにならない」「今の化学の先生はクラスの他の人からも評判が悪い」。いやいや、それよりも頼りないのは、君自身でしょうと。君自身が成長しなさい。

 

最後の最後は「家族全体の幸せ」

 『麹町中学校の型破り校長 非常識な教え』のこの項で明確に述べられているわけではありませんが、やはり、ここも「目的と手段を履き違えない」ということだと思います。
 そもそも、なぜ勉強するのか、受験をするのか。
 幸せになるための手段だからだと思います。
 勉強をめぐって、受験によって、家庭が不幸になるようなら、本末転倒でしょう。しかし、進学校の下位層、また、入学直後は上位でも、だんだん成績が悪くなっているような家庭は、受験によって不幸になっているようなケースが多いようです。

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町(麹町中から1.2km)代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

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【感想・書評】 なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える(講談社現代新書)

 

大学受験塾チーム番町 市ヶ谷駅66m 東大卒の塾長による個別指導

超一流になるのは才能か努力か?(文藝春秋)

成功する練習の法則 最高の成果を引き出す42のルール

 

【感想・書評】 なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える(講談社現代新書)

 

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『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の著者の実績と信頼性

 著者は慶應義塾大学文学部の安藤寿康教授です。ご専門は教育心理学、行動遺伝学、進化教育学だそうです。安藤寿康教授の研究室のサイト
 実績と信頼性は絶大と言えます。

 

『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の感想、書評

 安藤寿康先生の私見もかなり含まれると思われる部分もありますが、上記、慶應義塾双生児研究のサイトに、本書で引用した論文などがたくさん載っている、おおむね、大学での研究に基づいた、ちゃんとした本だと思います。

 読み終えての私の感想は、「目からウロコ」でした。「なぜヒトは学ぶのか」を深く、そして広範に、生物学的に考察した本書は、教育に対する全く新しい視点を提供していると思います。

 

ヒトが学ぶ生物学的理由?

 『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』のまえがきでは、ヒトが学ぶには、本の題名のように、ヒトという動物が持つ進化的で生物学的理由があるのではないか、という問題提起がなされます。
 本書では、直接的には述べられませんが、他書や塾長がよく使うロジックに「人類は600万年の歴史のほとんどを狩猟、採集で生き延びてきた」というものがあります。まあ、他の動物もそうなのですが、人類は、その過程で、教育をしたと思うのです。たとえば、協力してマンモスを狩る、食べられない毒キノコを教える、など。
 そして、現在、教育といえば、良い大学に入る、高い収入を得ることに目的が置かれることがほとんどだと思います。一方、『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』では、教育の目的を

他者のため。他者とともに生きるため。

としています。そういえば、明治政府が教育制度を整えたのは、おそらく、個人の自己実現のためでなく、富国強兵のためですよね。また、感染症なども、細菌やウイルスとはなにかを生物の授業で学び、指数関数とはなにかを数学の授業で学び、石けんのメカニズムを化学の授業で学べば、「感染症の感染者は、何も対策をしなければ、指数関数的に増加し、ウイルスの種類次第では、石鹸で手を洗うことが非常に有効」ということを原理から理解し、社会全体にとっての利益になりますね。

 この、私たちの祖先がいかに生き抜くために学んできたか、そして現代の教育がどのように進化してきたかを詳細に探求し、その過程で出てくるユニークな視点は、読者を魅了します。「なぜヒトは学ぶのか」を「生物学的に」追求し、学びの意味を深めるための一冊と言えます。
 本書では、「なぜヒトは学ぶのか」を「他者のため、他者とともに生きるため」と捉えています。これは非常に共感を覚える視点で、競争社会の中でしばしば見失われがちな教育の原点を再確認する機会を提供してくれていると思います。

 

教育の定義

 『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の前半は、教育とはなにか、といった、原理的な話が多く、学生、保護者、教育関係者にとって、即効性のある話は少ないかもしれません。
 「教育」にも様々な定義がありそうですが、本書の定義によると、「教育」を行う動物は、人間、ミーアキャット、タンデム・ランニングアリ、シロクロヤブチメドリだけだそうです。「生物学的」視点ですね。狩猟採集民にも「教育がない」人達が見られるそうです。

 

教育の遺伝学

 『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』のクライマックスは、第二部「教育の遺伝学」ではないでしょうか。「遺伝」も高校生物の一分野です。「生物学的」な考察と言えるでしょう。
 一卵性双生児(遺伝子も家庭環境も同じ)、二卵性双生児(遺伝子は半分共有、家庭環境は同じ)を調査して、テストの点数などの能力が、どの程度遺伝によるもので、どの程度環境によるものか、導く方法まで、ご丁寧に解説されています。
 このような行動遺伝学の研究によると、テストの成績などは、遺伝50%、遺伝に還元されない家庭環境30%、教え方や本人の変化20%だそうです。
 この部分は、遺伝的(生物学的)要素と環境的要素の相対的な影響力について深く考えさせる部分であり、読者に新たな知見を提供していると思います。

 遺伝5割、それ以外5割をどう考えるか。
 たとえば、入試のない、普通の公立中学校の下位層が上位層に移動することは、かなり難しいかもしれません。
 しかし、同じ入試に合格した、高校や私立中学の中で下位層から上位層に移動することくらいは、遺伝以外の5割で可能だ、というのが、大学受験塾チーム番町の塾長の経験上の結論です。

 教え方+本人の変化が2割、遺伝に還元されない家庭環境が3割をどう考えるか。
 これも塾長の経験に合致します。塾がいくらしっかりしていても、ご家庭がおかしなことをゴチャゴチャおっしゃっているようだと、成績は上がりません。
 逆に、入塾前に高校内で下位層でも、ご家庭が塾長の指導方針にご理解いただいた場合、上位層にまで伸びます。
 したがって、大学受験塾チーム番町では、入塾時に保護者の方向けに、ごくごく簡単ですが、ご家庭での振る舞いかたの指針をお渡ししております。その文書の参考図書の冒頭に、本書とこの数字を挙げております。また、当サイトでは、ご家庭がどのような環境であればよいか、科学的根拠とともに示している書籍を何冊も紹介しています。

 得意科目、苦手科目という言葉をよく聞きます。英語が得意な遺伝子、数学が得意な遺伝子といったものは存在するのでしょうか。
 本書では、研究によると、科目ごとの得意、苦手の遺伝子も存在するが、科目ごとの凸凹は、遺伝、生物学的要素よりも環境の影響が大きい、とのことです。これは、教育現場での指導や子育てにおけるアプローチを考える上で、「なぜヒトは学ぶのか」につき、重要な示唆を提供していると思います。
 塾長の経験上も、英語が得意で数学が苦手、という人は、数学もできるようになります。「苦手」という言葉は、使ってはいけないと思いました。

 

ワーキングメモリ

 『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の第三部「教育の脳科学」では、「ワーキングメモリ」という、今、流行りの概念が出てきます。脳科学も「生物学的」考察と言えるでしょう。
 本書には書かれていませんが、パソコンやスマホの「メモリ」と同様に、「ワーキングメモリ」は作業机の広さに例えられ、適切な方法で鍛えられそうだ、という研究があります。作業机が広ければ、学習や仕事にも有利になりますね。これも、「なぜヒトは学ぶのか」につき、重要な示唆を提供していると思います。

 

まとめ

 全体として、この本は「なぜヒトは学ぶのか」について深く掘り下げることで、教育の本質を理解する手がかりを提供します。それは生物学的な視点からの洞察だけでなく、人間の進化、社会、個々の遺伝と環境との関わりまでを包括した幅広い視野を提供しています。
 教育を深く考えるすべての人々にとって、この本は必読の一冊と言えるでしょう。教育現場で働く人々だけでなく、教育に興味を持つ親、学びに興味を持つ学生たち、そして私たち一人一人にとって、この本は新たな視点と知識を提供してくれます。私自身、この本を読むことで教育と学びについて新たな視点を得ることができ、「なぜヒトは学ぶのか」につき考え続け、これからの人生に大きな影響を与えることとなるでしょう

 

「なぜヒトは学ぶのか」とフーコー

 フーコーは、主体(自己)が社会的・歴史的に構築されるものだと考えました。この観点からすれば、「他者のため、他者とともに生きる」という学習の目的も、特定の社会的文脈の中で形成されてきた言説の一つだと言えます。この言説は、個人主義的な学習観に対する Alternative として機能し、学習を社会的な責任や連帯と結びつけます。    

 しかし、フーコーの視点からすれば、この言説もまた、一定の権力関係の中で生み出され、維持されているものです。「他者のため」に学ぶことを奨励する言説は、個人に特定の道徳的規範を内面化させ、自己犠牲や奉仕の価値を説きます。これは、規律訓練社会の一形態であり、個人を特定の方向に導く働きを持っています。

 また、「他者とともに生きるため」に学ぶという考え方は、社会的な調和や協調を重視する言説と結びついています。しかし、フーコーの権力論からすれば、この言説は、差異や対立を隠蔽し、既存の権力関係を維持する効果を持つ可能性があります。「ともに生きる」ことを強調するあまり、社会的な不平等や抑圧の問題が見過ごされてしまうかもしれません。

 ただし、フーコーの思想は、「他者のため、他者とともに生きる」という学習の目的を全面的に否定するものではありません。フーコーは、権力関係が生産的な側面を持ち、抵抗の可能性を内包していることも指摘しています。「他者のため」に学ぶという言説も、利他的な行動を促し、社会的な連帯を生み出す積極的な効果を持ち得るでしょう。

 重要なのは、この言説を無批判に受け入れるのではなく、その背後にある権力の作用を認識し、問い直していくことです。「他者のため、他者とともに生きる」ことの意味を、常に批判的に吟味し、再定義していく必要があります。そのためには、多様な視点から学習の目的を捉え直し、Alternative な学びの在り方を模索していくことが求められます。

 例えば、「他者のため」に学ぶことを、単なる自己犠牲ではなく、相互の尊重と対話に基づく営みとして捉え直すことができるでしょう。また、「他者とともに生きる」ことを、差異を認め合い、ともに成長していくプロセスとして理解することもできます。このように、フーコーの思想を手がかりとして、学習の目的をめぐる言説を批判的に解体し、再構築していくことが重要だと言えます。

 「他者のため、他者とともに生きるため」に学ぶという見解は、一定の積極的な意義を持ちつつも、常に権力関係の文脈の中で捉え直される必要があります。フーコーの思想は、この見解の背後にある規範的な前提を問い直し、より開かれた学びの可能性を探るための示唆を与えてくれます。私たちは、学習の目的をめぐる支配的な言説に抗して、自らの学びの意味を主体的に構築していかなければならないのです。

 

「なぜヒトは学ぶのか」とハイデガー

 ハイデガーの観点から「なぜヒトは学ぶのか」という問いを考えるとき、まず私たちは「世界内存在」としての人間の在り方に目を向ける必要があるでしょう。私たちは決して孤立した主体ではなく、常にすでに他者や事物とのつながりの中で生きています。ハイデガーが「世界」と呼ぶのは、こうした意味連関の総体にほかなりません。

 そして、この世界の中で人間が学ぶということは、単に知識を頭の中に蓄積することではありません。むしろ学びとは、世界を理解し、そこに参与し、みずからを形成していくプロセスだと言えます。私たちは学ぶことを通じて、他者との関わりを深め、共同体の一員としての役割を見出していくのです。

 ハイデガーはまた、人間を「言葉の牧人」と呼びました。言葉は単なるコミュニケーションの道具ではなく、存在を開示する出来事だからです。私たちは言葉を学び、言葉を使うことで、世界を意味あるものとして経験し、他者と思想を分かち合うことができます。この意味で、学びは言葉を通じた世界との対話であり、他者との対話なのです。

 さらに「死への先駆」の概念を手がかりにするなら、学びには実存的な意義もあると言えるでしょう。私たちは有限な存在であり、いつか必ず死を迎えます。この死の可能性を真摯に引き受けるとき、人は自らの生を本来的に生きる決意を迫られるのです。そして学びは、まさにこの「本来的な生」を形作る営みにほかなりません。私たちは学ぶことで、みずからの可能性を切り拓き、意味ある人生を歩むことができるのです。

 とはいえ、ハイデガーの議論をそのまま「他者のため」という倫理的な主張に結びつけるのは難しいかもしれません。彼の関心は何より、存在の意味を問うことにあったからです。しかし、「他者のため、他者とともに生きる」という倫理的態度は、ハイデガーの思想と無関係ではありません。私たちが世界の中で他者と分かち合いながら生きる存在である以上、学びを通じて他者との絆を深めていくことは、一つの道筋として考えられるでしょう。

 ただし、ハイデガーならば、安易な利他主義には与しないはずです。大切なのは、みずからの存在可能性に誠実に向き合い、本来的な在り方で生きることだからです。私たちは学びを通じて、自分自身であることと、他者とつながることとを、地道に両立させていく必要があります。それは容易な道のりではありませんが、かけがえのない営みではないでしょうか。

 

「なぜヒトは学ぶのか」とデリダ

 学びを個人の利益や自己実現のためだけでなく、他者との関係性の中で捉えている点で、デリダの他者論と共鳴します。デリダは、自己が他者によって構成されており、自己と他者は互いに不可分な関係にあると考えました。この観点からすれば、学びもまた、自己と他者の関係性の中で生じる事象であり、他者なくして学びは成立しないと言えるでしょう。

 さらに、「他者のため」に学ぶというのは、ある種の贈与の行為とも解釈できます。デリダの贈与論によれば、真の贈与とは見返りを求めない一方的な与えです。他者のために学ぶことは、自分の利益を度外視して知識を贈与する行為であり、経済的交換とは異なる倫理的関係性を生み出すと考えられます。

 ただし、ここで問題となるのは、「他者のため」という言葉の曖昧さです。他者とは具体的に誰を指すのか、また、他者の利益をどのように定義するのか。デリダの脱構築の観点からすれば、「他者のため」という表現自体が、ある種の形而上学的な前提に基づいていると言えます。つまり、自己と他者を明確に区別し、他者の利益を自明のものとして想定しているのです。

 しかし、自己と他者の境界は曖昧であり、絶えず変動しています。また、他者の利益も一義的に定まるものではなく、状況に応じて変化します。そのため、「他者のため」に学ぶことは、常に不確定性と曖昧さを孕んだ行為であると言えるでしょう。

 とはいえ、だからこそ、「他者のため」に学ぶことには倫理的な意義があるのかもしれません。デリダのホスピタリティの思想が示すように、他者への無条件の歓待は不可能でありながら、絶えず求められる倫理的責任です。他者のために学ぶことも、完全には実現できない理想ではありますが、他者への倫理的責任を引き受ける行為として意味を持ちます。

 そして、「他者とともに生きるため」に学ぶというのは、まさにこの倫理的責任を具体的に実践することだと言えます。他者とともに生きるということは、自己と他者の差異を認め、互いの価値観を尊重し合うことです。そのためには、他者について学び、対話を重ねることが不可欠です。学びは、自己と他者の差異を乗り越え、ともに生きる可能性を切り拓く営みなのです。

 ただし、ここでも脱構築の視点は重要です。「他者とともに生きる」ということ自体が、一つの理想であり、完全には実現不可能な目標だということを忘れてはなりません。他者との共生は、常に不確定で脆弱な関係性の中で模索されるものであり、決して安定した到達点ではないのです。

 以上のように、デリダの思想を踏まえれば、「ヒトが学ぶのは他者のため、他者とともに生きるため」という見解は、様々な問いを喚起する示唆に富んだ洞察だと言えます。学びを自己と他者の関係性の中で捉え、倫理的責任の実践として位置づける一方で、その不可能性と曖昧さを認識することが求められるでしょう。そうした脱構築の眼差しこそが、学びの意味を絶えず問い直し、新たな地平を切り拓く原動力になるのではないでしょうか。

 

『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の目次

序章 教育は何のためにあるのか

第一部 教育の進化学
第1章 動物と学習
1.知識によって生きる動物
2.知識の由来
第2章 人間は教育する動物である
1.教育によって学ぶ本能
2.文化的知識の創造・蓄積・学習におよぼす教育の意味

第二部 教育の遺伝学
第3章 個人差と遺伝の関係
1.教育と遺伝ー残酷な真実?
2.行動遺伝学とは何かー双生児法のロジック
第4章 能力と学習
1.学力はどのように遺伝的か
2.遺伝と環境の交互作用
3.能力には遺伝的基盤があることを認めたとき、どう考えるか

第三部 教育の脳科学
第5章 知識をつかさどる脳

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

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【感想・書評】アームストロング砲(司馬遼太郎):数学と理科を勉強する重要性

 

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【感想・書評】アームストロング砲(司馬遼太郎):数学と理科を勉強する重要性

 

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『アームストロング砲』の著者と実績

 著者は歴史小説の大家、司馬遼太郎さんです。司馬遼太郎さんは、他にも『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『翔ぶが如く』『花神』といった、ベストセラーや、NHK大河ドラマ、スペシャルドラマにもなった、多くの有名な歴史小説を書いています。
 歴史小説家としての実績は、日本史上、屈指の存在でしょう。

 

『アームストロング砲』の感想、書評 

 文庫本の題名が『アームストロング砲』なのですが、この文庫は短編集で、その中に『アームストロング砲』という短編があります。

 

思想よりもアームストロング砲

 

思想よりも科学

 明治維新は「薩長土肥」と言われます。
 肥前佐賀藩は何をしたか知っていますか?司馬遼太郎さんによると、幕末の佐賀藩は「軍隊の制度も兵器も、ほとんど西欧の二流国なみに近代化されていた」とのことです。鳥羽伏見の戦いで薩長が幕府軍に勝った後、佐賀藩はその軍事力を薩長に提供しました。

 幕末の佐賀藩の殿様、鍋島閑叟(かんそう)は、「産業開発のために藩の秀才を選抜して、英語、数学、物理、化学、機械学を学ばせ」たそうです。なぜでしょうか?
 幕末の日本は、尊王・佐幕、攘夷・開国といった、思想の議論が盛んでした。一方、鍋島閑叟は、科学力に基づく経済力、軍事力がなければ始まらない、と見抜いていたのだと思います。
史実か創作かはわかりませんが、司馬遼太郎さんは、鍋島閑叟に

「長州人にいたっては空想空論の舌さき三寸で天下の事が成ると思っている」

と言わせています。天下の事は技術を持って成す、という思想は、後述する、戊辰戦争の総司令官、元は長州の村医者の大村益次郎と似ていると思います。

 たとえばデリダは、西洋形而上学の伝統を脱構築し、その根底にある「ロゴス中心主義」を批判しました。彼にとって、真理や実在は言語の外部に存在するのではなく、言語の働きそのものの中に生成されるものでした。したがって、知識や学問もまた、言語の差異的な運動の中で絶えず構築され、脱構築されるプロセスだと言えるでしょう。

 この観点から見ると、鍋島閑叟が藩の秀才に学ばせた「英語、数学、物理、化学、機械学」は、単なる実学的な知識ではなく、新たな思考の可能性を切り拓く契機だったと捉えることができます。それは、従来の儒学的な知の体系に閉じこもるのではなく、西洋の科学的な知の体系に開かれていく試みだったのです。

 ここで重要なのは、鍋島閑叟がこれらの知識を単に受容するだけでなく、それを「産業開発」という具体的な文脈の中で活用しようとしたことです。知識は常に特定の文脈の中で意味を持つものであり、その文脈を離れては空虚な記号に過ぎません。鍋島閑叟は、西洋の知を日本の文脈に接続し、新たな意味を生み出そうとしたのだと言えるでしょう。

 また、鍋島閑叟の教育政策は、当時の思想的な対立を超えて、知の実践的な力に着目するものでした。尊王・佐幕、攘夷・開国といった二項対立的な思考に対して、鍋島閑叟は科学力と経済力、軍事力の重要性を訴えたのです。それは、言説の次元での対立を超えて、知の具体的な効果に目を向ける姿勢だと言えるでしょう。

 ただし、ここで注意すべきは、科学力や経済力、軍事力もまた、一つの言説であり、権力と結びついたものだということです。知は決して中立的なものではなく、常に権力関係の中に組み込まれています。鍋島閑叟の教育政策も、藩の権力を維持・拡大するための戦略的な営みだったと見ることができるのです。

 したがって、鍋島閑叟の試みを単に礼賛するのではなく、その知の実践がどのような権力関係の中に位置づけられていたのかを問うことが重要です。それは、知と権力の複雑な絡み合いを解きほぐし、知のあり方を根本的に問い直す作業でもあるでしょう。

 幕末の佐賀藩の教育政策は、知をめぐる根源的な問いを突きつけているように思われます。それは、知の言説的な性質と実践的な力、そしてそれらと権力との関係を問うものです。私たちは、知の可能性を切り拓きながらも、その知がどのような文脈の中で機能しているのかを常に問い続けなければならないのです。そのような批判的な態度こそが、知の豊かさと危うさを同時に引き受ける道であり、私たちを新たな思考の地平へと導くのではないでしょうか。

 

現代にも存在する「進路の強制」問題

 ただ、現在、大学の先生や教育界の気鋭の指導者の中での通説では、たとえば、「医師の親が子に『医学部に入れ』などと言って、勉強を強いるのは(どちらの行為も)逆効果、とされます。また、シリコンバレーでは、親が子に、早くからプログラミングを学ばせたところ、子は大学で哲学を専攻してしまった、などという話もあるようです。佐賀藩の場合、殿様と家来という関係だから、なんとか成立していたのでしょうね。実際に、発狂してしまった佐賀藩士も描かれています。なんだ、幕末も、現在も、教育事情は、大して変わらないではないか、と思いました。

 ただ、時間の線形的な流れを脱構築し、過去と現在、未来の複雑な絡み合いを思考すると、歴史とは単なる過去の出来事ではなく、現在との絶えざる対話の中で生成されるものと言えます。したがって、幕末の教育政策と現代の教育問題を単純に比較するのではなく、それらの間に横たわる差異と反復の運動に目を向けることが重要かもしれません。
 この観点から見ると、親が子に特定の学問や職業を強いることの問題性は、幕末から現代に至るまで繰り返し立ち現れてきた主題だと言えるでしょう。医師の親が子に医学部進学を強制したり、シリコンバレーの親が子にプログラミングを学ばせたりすることの弊害は、江戸時代の佐賀藩士の発狂という事例にも通じるものがあります。それは、知の強制が個人の主体性を抑圧し、精神的な危機をもたらす可能性を示唆していると思います。
 ただし、ここで注意すべきは、幕末と現代の教育問題を同一視することの危険性です。歴史は単なる繰り返しではなく、常に差異を孕んだ反復の運動と言えます。佐賀藩の教育政策が藩主と家臣という封建的な関係の中で行われたのに対し、現代の教育問題は個人の自由と権利が尊重される民主主義社会の文脈の中で生じています。両者の間には、時代状況の違いに基づく質的な差異があると言わなければなりません。
 また、シリコンバレーの事例が示すように、親の期待に反して子が哲学を専攻するという現象もまた、教育をめぐる言説の複雑さを物語っています。それは、知の強制に対する個人の抵抗であると同時に、実学的な知識の価値を相対化する試みでもあるのです。このような言説の絡み合いこそが、教育の問題を豊かで多面的なものにしていると言えるでしょう。
 したがって、幕末と現代の教育問題の類似性を指摘するだけでは不十分かもしれません。むしろ重要なのは、両者の間に横たわる差異を繊細に読み解き、それぞれの時代の文脈の中で教育の問題を捉え直すことでしょう。そのためには、教育をめぐる言説の複雑な絡み合いに目を向け、その言説が持つ力と限界を批判的に検討することが不可欠でしょう。
 教育をめぐる議論は、時間と言説の複雑な織物の中に浮かび上がってきます。私たちは、過去と現在の単純な比較ではなく、差異と反復の運動の中で教育の問題を捉え直さなければなりません。そのような批判的な思考こそが、教育の豊かさと可能性を切り拓く道であり、私たちを新たな教育の地平へと導くのではないでしょうか。同時に、教育をめぐる言説が持つ権力性にも自覚的でなければなりません。教育の名の下に個人の主体性が抑圧されることのないよう、私たちは常に用心深くなくてはなりません。

 大学受験塾チーム番町でも、塾で授業を行うのは、英語、数学、物理、化学です。また、STEM教育への取り組みとして、プログラミング、電子工作をおすすめしています。塾長も、有史以来、国力を決めるのは、科学力だと思っています。何千年もの昔、鉄器文明の勢力は、青銅器文明の勢力を駆逐したのです。思想としては、鍋島閑叟と同じなのだと思います。

 

アームストロング砲の製造?

 小説『アームストロング砲』では、佐賀藩でアームストロング砲を製造したことになっています。これは史実かどうかはわからないようです[1]。ただし、小説なので、創作は許されます。
 司馬遼太郎さんは、佐賀藩と言えども、アームストロング砲を製造するには乏しすぎる科学力で、必死にアームストロング砲を研究、開発する佐賀藩士を描くことによって、現在の日本人に奮起を促したのではないでしょうか。

 フィクションと現実、創作と史実の境界を脱構築し、それらの間の複雑な相互作用を思考しましょう。すると、文学とは単なる虚構の産物ではなく、現実を形作る言説の一部でもありえます。したがって、『アームストロング砲』における佐賀藩の描写を単なる創作として片付けるのではなく、その描写が持つ現実的な効果に目を向けることが重要になると思います。
 この観点から見ると、佐賀藩士がアームストロング砲の製造に奮闘する姿は、単なる過去の出来事の再現ではなく、現在の日本人に向けられたメッセージだと捉えることができます。それは、科学力の乏しさを嘆くのではなく、その乏しさの中で知恵を絞り、新たな可能性を切り拓こうとする姿勢を称揚するものなのです。
 ここで重要なのは、司馬遼太郎が佐賀藩士の努力を描くことで、現在の日本人の主体性を喚起しようとしていることです。主体とは言説の効果として立ち現れるものであり、言説がどのように主体を形作っているかを問うことが重要です。『アームストロング砲』における佐賀藩士の描写は、現代の日本人の主体形成に働きかける言説的な実践だと言えるでしょう。
 ただし、ここで注意すべきは、この小説が持つ言説的な力を過度に一般化することの危険性です。言説は常に特定の文脈の中で機能するものであり、その文脈を離れて普遍化することはできません。『アームストロング砲』が喚起する主体性もまた、特定の歴史的・社会的な文脈の中で生じるものであり、それを絶対化することは慎まなければなりません。
 また、この小説が現代の日本人に奮起を促すというメッセージ性もまた、一つの言説的な構築物だと見ることができます。それは、日本人としての主体性を特定の方向に導こうとする戦略的な営みでもあるのです。このようなメッセージ性が持つ権力性を批判的に検討することが不可欠でしょう。
 したがって、『アームストロング砲』における佐賀藩の描写を単に称揚するのではなく、その描写が持つ言説的な効果と権力性を繊細に読み解くことが重要だと思います。それは、この小説が喚起する主体性の可能性と限界を同時に見定める作業でもあるでしょう。
 小説という虚構の世界は、現実を形作る言説の織物の一部として立ち現れてきます。私たちは、小説が持つ言説的な力に敏感になりながら、同時にその力が持つ政治性にも自覚的でなければなりません。そのような批判的な読みこそが、小説の豊かさと危うさを同時に引き受ける道であり、私たちを新たな思考の地平へと導くのではないでしょうか。『アームストロング砲』が投げかける問いは、私たちの主体性そのものを問い直すことへの呼びかけなのかもしれません。

  

戊辰戦争とアームストロング砲

 戊辰戦争が始まり、鍋島閑叟はやっと上洛します。そこで、かつて「舌さき三寸で天下の事が成る」という思想で奔走していたであろう、長州の桂小五郎に、佐賀藩の軍隊を官軍の主勢力とすることを懇願され、鍋島閑叟は、中立を破り、薩長側につきます。
 鍋島閑叟は、勝ち組に入るために、このタイミングを待っていて、「薩長土肥」に入ることができ、してやったりのでしょうか。それとも、胸中は、なにか複雑、虚しさのようなものがあったのでしょうか。
 同じ九州で、関ヶ原の戦いの時、黒田官兵衛は、九州を切り取って、独立しようと思っていた、という説がありますよね。鍋島閑叟も、似たようなことを考えていたかどうか…。    

 その後、江戸城は無血開城されます。それに不満の幕臣は彰義隊を結成し、新政府軍との上野戦争が勃発します。その時、佐賀藩の「アームストロング砲」は加賀屋敷、つまり、現在の東京大学本郷キャンパスに設置され、勝敗を決した、とのことです。塾長は、一時期、不忍池を通って本郷キャンパスに通っていた時期があり、この話は身近に感じます。その後も、北陸、東北戦線で、鍋島閑叟が育てた佐賀藩の軍事力は、大いに活躍したそうです。
 戦争が良いこととは思いませんが、鍋島閑叟が数学、理科で育てた軍事力により、日本の内戦が短期間で終わったならば、やはり、鍋島閑叟は偉大なのではないか、と思いました。

 司馬遼太郎さんは、いくつか、科学技術もテーマに含んだ歴史小説を書いているよう です。
 『花神(かしん)』(1977年NHK大河ドラマ)は、先述の上野戦争の新政府軍の司令官である大村益次郎が主人公です。大村益次郎は、靖国神社(千代田区九段、大学受験塾チーム番町から800m)に銅像が立っています。像から番町側で、「鳩居堂」という蘭学の塾を開いていた時期もあります。おそらく、数学、物理学、化学も教えていたのではないかと思われます。
 大村益次郎は、第二次幕長戦争の長州の司令官でもありました。
幕府軍の先鋒が戦国さながらの甲冑と火縄銃で現れたのに対し、長州軍はミニエー銃という性能の良い銃を持ち、大村益次郎がオランダ語で読んだ兵学を実践したのでした。

 

数学と理科を勉強しよう

 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』(2009~2011年NHKスペシャルドラマ)は日露戦争が描かれます。
 日露戦争の日本海海戦の勝因としては、日本の戦法、徹底した訓練、などの他に、伊集院信管、下瀬火薬、無線電信機、海底ケーブル、などの新技術が挙げられるようです。

 「産業開発のために藩の秀才を選抜して、英語、数学、物理、化学、機械学を学ばせ」た。太平洋戦争では、日本では原爆を落とされました。現在、日本には、GAFAMのような企業はありません。 
 日露戦争後、あるいは、「失われた30年」の日本にもうひとつ欠けていたのは、このような姿勢ではないでしょうか。
 そして現在、一部の高校では、早めに数学、理科を捨て、早慶、GMARCH文系の合格者で高校のブランドづくりをしています。日本国は、このようなことで大丈夫なのでしょうか?

 幕末の佐賀藩が進めた洋学の導入と、現代の高校教育における理系と文系の分断。戦前の日本の軍事的な躍進と、戦後の経済的な停滞。これらの対立項は、一見すると無関係に見えますが、近代日本の歩みを暗示的に物語っているようです。
 しかし、これらの二項対立は決して安定したものではありません。一方の項を優先することは、必然的に他方の項を周縁化することにつながるのです。幕末の佐賀藩が洋学を重視したように、理系教育重視を主張することは、一面では合理的かもしれません。しかし、そのことが日本文化の豊かさを担ってきた人文学的教養を軽視することにつながるとしたら、それは大きな代償を払うことになるでしょう。
 また、太平洋戦争での敗北と、GAFAMに代表されるようなイノベーティブな企業の不在は、日本の近代化の歪みを象徴しているようにも見えます。戦前の日本は、軍事力の強化に邁進するあまり、科学技術の真の発展を疎かにしてきたのかもしれません。そして戦後は、経済成長を最優先するあまり、基礎研究や教育への投資を怠ってきたのかもしれません。これらの歪みは、二項対立の片方の項を偏重することから生じたものだと言えます。
 このような二項対立を乗り越えていくことが重要性ではないでしょうか。理系と文系、効率と人間性、伝統と革新といった対立項を、二者択一の問題として捉えるのではなく、両者を共に育んでいく必要があると思います。
 教育もまた、こうした二項対立を乗り越えていく場であるべきでしょう。効率性や即戦力ばかりを重視するのではなく、長期的な視野に立って、多様な知性と感性を育んでいくことが求められています。そのためには、教養教育の重要性を再認識し、人文学と自然科学の融合を図っていく必要があると思います。そうすることで初めて、日本は真の意味での近代化を遂げ、創造性豊かな社会を実現することができるのではないでしょうか。
 私達は、固定化された価値観や既成の枠組みを問い直すことが求められていると思います。日本の未来を切り拓いていくためには、こうした脱構築の精神を胸に、新しい知のあり方を模索していくことが不可欠だと思います。

 司馬遼太郎さんは、足掛け15年戦争に従軍しています。そして、終戦後「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」と思ったそうです。このような思いが、鍋島閑叟や大村益次郎のような合理主義者を主人公とした小説の執筆に駆り立てたのではないでしょうか。そして、二度と同じ過ちを犯さないように、日本人に訴えたかったのではないでしょうか。

 ちなみに、司馬遼太郎さんは、鍋島閑叟を描いた『肥後の妖怪』(『酔って候』(文春文庫)に収録)という短編小説も書いています。

 

出版社の実績と信頼性

 『アームストロング砲』の出版社は講談社です。小学館・集英社とともに、日本の三大出版社と呼ばれます。「週刊少年マガジン」のような漫画雑誌から、本書のような文庫本まで、幅広く出版しています。
 講談社の実績、信頼性は絶大と言えます。

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

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【感想・書評】東大のこと、教えます(プレジデント社、小宮山宏):世界の知の頂点を目指して

 

東大教師が新入生にすすめる本(文春新書)

 

【感想・書評】東大のこと、教えます(プレジデント社、小宮山宏):世界の知の頂点を目指して

 

 

『東大のこと、教えます』の著者と信頼性

 『東大のこと、教えます』は2007年発売の本です。
 2005年から2009年まで東大の総長を務められた小宮山宏先生が、東大や日本について語っています。
 小宮山宏先生は1944年生まれ。都立戸山高校から東京大学工学部化学工学科に進学されました。ご専門は、地球温暖化問題対策技術などだそうです。東大総長退任後は、三菱総合研究所理事長、新日本石油社外取締役、JXホールディングス社外取締役などを務められています。
 元東大総長なので、著者の信頼性は絶大と言えます。

 

『東大のこと、教えます』のまえがき

・日本から世界への発信が少ない
・このままでは、日本は「世界の田舎」になる
・環境、エネルギー問題の解決について、最も先進的なモデルを実現しているのは日本
・もはや、模倣や導入が有効な時代は終わったのに、「アメリカでは」「フランスでは」といった「出羽守」が多い。

 したがって、小宮山先生は、「東京大学アクションプラン」をつくりました。東大を「世界の知の頂点」とし、日本、世界の課題解決に役立つ大学とするための決意表明が記されています。このことについても、本書に詳述されています。

 デリダは、西洋中心主義的な思考を脱構築し、中心と周縁の関係を問い直すことを試みました。彼にとって、ある特定の文化や価値観が「中心」として特権化され、他の文化や価値観が「周縁」として排除されることは、問題含みの行為でした。
 この観点から見ると、日本が「世界の田舎」になるという危機感は、まさに西洋中心主義的な思考の産物だと言えるでしょう。「アメリカでは」「フランスでは」といった言説は、西洋の文化や価値観を「中心」として特権化し、日本を「周縁」に位置づける思考の表れなのです。
 しかし、『東大のこと、教えます』は、この西洋中心主義的な思考自体を問い直そうとしているようにも読めます。日本が環境やエネルギー問題の解決において「最も先進的なモデル」を実現しているという指摘は、日本の独自性と優位性を主張するものです。それは、西洋を「中心」とする思考に対する一つの挑戦でもあるのです。
 ただし、ここで注意すべきは、日本の独自性や優位性を主張することが、単なる自文化中心主義に陥る危険性もあるということです。デリダが示唆するように、どのような文化や価値観も、絶対的な正当性を主張することはできません。日本のモデルもまた、常に脱構築の対象となり得るのです。
 この点で、「東京大学アクションプラン」は興味深い試みだと言えるでしょう。東大を「世界の知の頂点」とすることは、日本の独自性を主張すると同時に、世界との対話と交流を促進するものでもあります。それは、自文化と他文化の境界を絶えず横断し、新たな知の可能性を切り拓く営みだと言えると思います。
 ただし、ここでもまた、「世界の知の頂点」という言葉自体が、一つの中心化の言説であることに注意が必要です。真の意味での知の探求とは、あらゆる中心化の言説を脱構築し、絶えず周縁へと開かれ続けることだと思います。
 『東大のこと、教えます』のまえがきと「東京大学アクションプラン」は、私たちに知のあり方の本質的な問いを投げかけているように思えます。それは、自文化と他文化の境界を絶えず横断し、中心と周縁の関係を問い直しながら、新たな知の地平を切り拓いていく営みなのです。そのような脱構築と再構築の果てしない運動こそが、私たちを真の意味での「知」へと導くのではないでしょうか。

 

東大の世界ランキングは?

小宮山先生は、本書で「東大は「総合力」では世界一だ」と語っています。

「人間とはなにか」を学ぶ文学部、「自然とはなにか」を追求する理学部、幅広い見識と知的能力を磨く教養学部、これら三学部が総合大学としての東大の中核部分にある。その周りに、法学、経済学、工学、医学、薬学、農学といった実学がある。さらに多くの研究所やセンターが最先端の研究を担う。これが東大の基本構造であり、ここまできちんとした構造をもっている大学は世界でも少ない。

 たとえば、世界一の大学といえば、ハーバード大学が思い浮かびがちですが、ハーバード大学は、医療以外の理系の実学が弱いとのことです。

 2006年の世界大学ランキングについては、この年、東大は16位でした。しかし、アメリカの週刊誌(NEWSWEEK)の評価なので、英語を使う国が圧勝で、ドイツ、フランスの大学は30位以内に一校も入っていない。こうした状況も把握せず、欧米は日本より進んでいるという前提の議論は時間の無駄である、としています。

 デリダは、あらゆる二項対立的な思考を脱構築し、それらの間の階層関係を問い直すことを試みました。彼にとって、一方の項が特権化され、他方の項が下位に位置されることは、問題含みの行為でした。
 この観点から見ると、世界大学ランキングは、まさに大学間の階層関係を固定化する装置だと言えるでしょう。ランキングは、特定の基準に基づいて大学を序列化し、「上位」と「下位」の区別を生み出します。それは、大学の多様性や独自性を捨象し、一元的な価値基準を押し付ける行為なのです。
 しかし、小宮山先生は、このランキングの問題性を鋭く指摘しています。英語を使う国が圧勝するランキングは、言語の多様性を無視した、自文化中心主義的な評価だと言えます。また、ドイツやフランスの大学の順位の低さは、ランキングの基準がいかに恣意的で偏ったものであるかを示しているのです。
 この点で、東大の「総合力」を強調する小宮山先生の議論は、ランキングの一元的な価値基準に対する挑戦だと読めます。文学、理学、教養学という三学部を中核に、実学と最先端の研究を有機的に結びつける東大の構造は、多様性と独自性を重視する教育モデルだと言えるでしょう。それは、ランキングの画一的な基準では測れない、大学の真の「強み」を示すものだと思います。
 ただし、ここで注意すべきは、「総合力」という概念自体が、一つの価値基準であることです。どのような価値基準も絶対的なものではなく、常に脱構築の対象となり得ます。「総合力」もまた、ある特定の教育モデルを特権化する言説である可能性があるのです。
 したがって、真の意味での大学の評価とは、あらゆる価値基準を相対化し、絶えず問い直していくことなのかもしれません。それは、ランキングの一元的な基準に依拠するのでもなく、「総合力」という概念に固執するのでもない、大学の多様性と独自性を尊重する態度だと思います。
 小宮山先生の議論と世界大学ランキングの問題は、私たちに大学のあり方の本質的な問いを投げかけているように思えます。それは、あらゆる価値基準を脱構築し、大学の多様性と独自性を尊重しながら、新たな教育と研究の可能性を切り拓いていく営みだと思います。

 ただ、2023年現在、おそらく日本の大学は凋落を続けていて、欧米のみならず、アジアとの比較の時代になっていると思います。今、アジアの大学と比べた時、小宮山先生は何を語るでしょうか?

 

東大の先生、研究のレベルは?

 東大の教授、助教授(現在は准教授)約2,500人のうち、三分の一は世界で通用するレベルとしています。学問の世界は非常に細分化されているので、細分化された分野ごとに考えると、そう言えるそうです。
 実際に先生の名前を列挙されています。たとえば、この本は2007年発売ですが、2015年にノーベル賞を受賞された梶田隆章先生の名前も見られます。たしかに、実際に世界トップレベルだったのだなあ、と思いました。

 ただし、知識を細分化し、専門家の権威に委ねることは、知の全体性を見失わせる危険性があると思います。それは、知識の断片化と権力化を促進し、知の自由な探求を阻害しかねません。
 この観点から見ると、学問の細分化は、知の全体性を捉えることを困難にする側面があると言えるでしょう。細分化された分野ごとに専門家が存在し、その権威が強調されることで、分野間の有機的な連関が見えにくくなります。それは、知の総合的な理解を妨げ、専門家の言説に依拠する受動的な態度を助長しかねません。
 いっぽうで、東大の教授陣の質の高さを強調する小宮山先生の議論は、この細分化の問題に一石を投じるものだと読めます。三分の一の教授が「世界で通用するレベル」だという指摘は、専門分野における最高水準の知見を追求する東大の姿勢を示すものです。それは、細分化された知の最前線に立ち、その限界を乗り越えていく営みだと言えるでしょう。
 ここで注意すべきは、「世界で通用するレベル」という評価自体が、一つの価値基準であることです。どのような評価基準も絶対的なものではなく、常に脱構築の対象となり得ます。「世界で通用する」という言説もまた、ある特定の学問観を特権化する可能性があります。
 また、個々の教授の卓越性を強調することは、知の個人化を促進する危険性もあります。知の探求とは、個人の才能や業績に還元できるものではなく、言語や文化、歴史といった共同性の中で生成するものだと思います。
 したがって、真の意味での知の追求とは、専門分野の深化と知の総合化を同時に進めていくことなのかもしれません。それは、細分化された知の最前線に立ちながら、常にその限界を問い、分野間の対話と交流を促進する態度だと思います。そのためには、個々の教授の卓越性を認めつつも、知の共同性と全体性への視座を失わないことが重要でしょう。
 東大の教授陣の質の高さと学問の細分化の問題は、私達に知のあり方の本質的な問いを投げかけているように思えます。それは、専門分野の深化と知の総合化を同時に追求し、知の共同性と全体性への視座を保ちながら、新たな知の地平を切り拓いていく営みだと思います。

 

東大に新しい学部を作るなら?

 ビジネススクールだそうです。
 たしかに、日本人がビジネススクールに通おうと思った場合、一橋や早慶にもありますが、東大にはありません。東大卒の場合、アメリカの大学院に通って、MBA(経営学修士号)を取得する、という場合が多いと思います。
 小宮山先生は、総長に就任してすぐに、動いたそうですが、実現には至らなかったそうです。

 実現に至らなかったのには、いくつかの要因が考えられるでしょう。一つには、東大の伝統的な学問の枠組みや教育方針とビジネス教育の実践的なアプローチとの間に文化的なギャップがあった可能性があると思います。また、資金調達や適切な教員の確保、カリキュラム開発など、新しい学部を設立するための具体的な課題があったかもしれません。

 しかし、その後、東大は社会人向けの「東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラム」(東大EMP)を設立しており、これはビジネススクールとは異なるアプローチで、経営やリーダーシップに関する教育を提供しています。東大EMPは、従来のMBAプログラムとは異なり、課題設定能力を重視し、社会や未来を拓いていくリーダーを育成することを目指しています。

 このように、東大はビジネススクールの設立には至らなかったものの、社会の変化に対応し、新たな時代のリーダーを育成するための教育プログラムを提供していることがわかります。これは、東大が学問の伝統を守りつつも、社会のニーズに応える柔軟性を持っていることを示しており、今後もそのような取り組みが期待されます。

 

ビル・ゲイツを客員教授に呼ぶなら?

 ビル・ゲイツは、特に口説かなくとも、客員教授として短期の講義はいつでもやってくれるだろう、とのことです。
 その他、オラクルの創業者のラリー・エリソン氏は、大変な日本びいきだそうです。実際に、本郷キャンパスで講演をしたこともあるそうです。ラリー・エリソン氏のカリファルニアの自宅は、京都の桂離宮を、そっくり模した建物だそうです。
 また、小宮山先生は、国際的なネットワークが必要だと考え、タイの王女やダボス会議の創設者などをメンバーとした組織に助言をもらっていたそうです。

 文化的な境界を越えた交流や対話は重要だと思います。異なる文化や言語の間の出会いは、自己同一性を揺るがし、新たな思考の可能性を切り拓くと思います。それは、自文化の枠組みを相対化し、他者の視点を取り入れることで、より豊かな知の地平を切り拓く営みだと言えるでしょう。
 この観点から見ると、東大とグローバルリーダーとの交流は、文化的な境界を越えた知の交流の一つの形だと捉えることができます。ビル・ゲイツやラリー・エリソン氏といった世界的なリーダーが東大で講義や講演を行うことは、異なる文化や価値観の出会いの場を創出するものです。それは、東大の知的環境を豊かにし、学生や研究者に新たな視点と発想をもたらす可能性を秘めています。
 また、小宮山先生がタイの王女やダボス会議の創設者らとのネットワークを重視していることは、知のグローバル化の重要性を示しています。国や文化の枠を越えた知の交流は、地球規模の課題に対応するための不可欠な条件だと言えます。それは、多様な視点と知見を結集し、新たな解決策を生み出す土壌を作ると思います。
 ただし、ここで注意すべきは、グローバル化の名の下に、特定の文化や価値観が一方的に押し付けられるリスクがあることです。グローバル化は時として、強者の論理を押し付ける装置として機能することがあります。真の意味での知の交流は、あくまでも対等な立場に基づく対話と相互理解なくしては実現し得ないと思います。
 東大とグローバルリーダーとの関係は、私達に知のあり方の本質的な問いを投げかけているように思えます。それは、文化的な差異を越えた対話と交流を通して、知の地平を拡げていく営みだと思います。そのような差異の中の対話こそが、私たちを新たな知の可能性へと導くのではないでしょうか。同時に、グローバル化の影に潜む権力の問題にも自覚的でなければなりません。真に対等な文化間の対話と相互理解の実現に向けて、私たちは常に努力を重ねていく必要があるでしょう。

 その他、東大の抱える課題、日本の抱える課題、特に、国際的な視点から語られている部分が印象的でした。

 

『東大のこと、教えます』の目次

1.東大にしかできないことがある
2.東大がニッポンを変える
3.東大だってお金がほしい
4.【番外編】東大総長の胸のウチ
特別対談 小宮山宏VS梅田望夫

 

『東大のこと、教えます』の出版社の実績と信頼性

 『東大のこと、教えます』の出版社の出版社はプレジデント社です。ビジネス雑誌『プレジデント」や家庭・教育雑誌『プレジデントファミリー』などを出版しています。単行本も、『企業参謀』(大前研一)など主にビジネス系のものを出版しています。出版社の中ではかなり信頼性が高い部類だと考えられます。

 

キムタツの東大に入る子が実践する勉強の真実(KADOKAWA)

東大脳の作り方(平凡社新書)

東京大学文系・理系数学 傾向と対策と勉強法

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

大学受験塾チーム番町 市ヶ谷駅100m 東大卒の塾長による個別指導

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