【感想・書評】 なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える(講談社現代新書)

 

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【感想・書評】 なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える(講談社現代新書)

 

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『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の著者の実績と信頼性

 著者は慶應義塾大学文学部の安藤寿康教授です。ご専門は教育心理学、行動遺伝学、進化教育学だそうです。安藤寿康教授の研究室のサイト
 実績と信頼性は絶大と言えます。

 

『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の感想、書評

 安藤寿康先生の私見もかなり含まれると思われる部分もありますが、上記、慶應義塾双生児研究のサイトに、本書で引用した論文などがたくさん載っている、おおむね、大学での研究に基づいた、ちゃんとした本だと思います。

 読み終えての私の感想は、「目からウロコ」でした。「なぜヒトは学ぶのか」を深く、そして広範に、生物学的に考察した本書は、教育に対する全く新しい視点を提供していると思います。

 

ヒトが学ぶ生物学的理由?

 『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』のまえがきでは、ヒトが学ぶには、本の題名のように、ヒトという動物が持つ進化的で生物学的理由があるのではないか、という問題提起がなされます。
 本書では、直接的には述べられませんが、他書や塾長がよく使うロジックに「人類は600万年の歴史のほとんどを狩猟、採集で生き延びてきた」というものがあります。まあ、他の動物もそうなのですが、人類は、その過程で、教育をしたと思うのです。たとえば、協力してマンモスを狩る、食べられない毒キノコを教える、など。
 そして、現在、教育といえば、良い大学に入る、高い収入を得ることに目的が置かれることがほとんどだと思います。一方、『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』では、教育の目的を

他者のため。他者とともに生きるため。

としています。そういえば、明治政府が教育制度を整えたのは、おそらく、個人の自己実現のためでなく、富国強兵のためですよね。また、感染症なども、細菌やウイルスとはなにかを生物の授業で学び、指数関数とはなにかを数学の授業で学び、石けんのメカニズムを化学の授業で学べば、「感染症の感染者は、何も対策をしなければ、指数関数的に増加し、ウイルスの種類次第では、石鹸で手を洗うことが非常に有効」ということを原理から理解し、社会全体にとっての利益になりますね。

 この、私たちの祖先がいかに生き抜くために学んできたか、そして現代の教育がどのように進化してきたかを詳細に探求し、その過程で出てくるユニークな視点は、読者を魅了します。「なぜヒトは学ぶのか」を「生物学的に」追求し、学びの意味を深めるための一冊と言えます。
 本書では、「なぜヒトは学ぶのか」を「他者のため、他者とともに生きるため」と捉えています。これは非常に共感を覚える視点で、競争社会の中でしばしば見失われがちな教育の原点を再確認する機会を提供してくれていると思います。

 

教育の定義

 『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の前半は、教育とはなにか、といった、原理的な話が多く、学生、保護者、教育関係者にとって、即効性のある話は少ないかもしれません。
 「教育」にも様々な定義がありそうですが、本書の定義によると、「教育」を行う動物は、人間、ミーアキャット、タンデム・ランニングアリ、シロクロヤブチメドリだけだそうです。「生物学的」視点ですね。狩猟採集民にも「教育がない」人達が見られるそうです。

 

教育の遺伝学

 『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』のクライマックスは、第二部「教育の遺伝学」ではないでしょうか。「遺伝」も高校生物の一分野です。「生物学的」な考察と言えるでしょう。
 一卵性双生児(遺伝子も家庭環境も同じ)、二卵性双生児(遺伝子は半分共有、家庭環境は同じ)を調査して、テストの点数などの能力が、どの程度遺伝によるもので、どの程度環境によるものか、導く方法まで、ご丁寧に解説されています。
 このような行動遺伝学の研究によると、テストの成績などは、遺伝50%、遺伝に還元されない家庭環境30%、教え方や本人の変化20%だそうです。
 この部分は、遺伝的(生物学的)要素と環境的要素の相対的な影響力について深く考えさせる部分であり、読者に新たな知見を提供していると思います。

 遺伝5割、それ以外5割をどう考えるか。
 たとえば、入試のない、普通の公立中学校の下位層が上位層に移動することは、かなり難しいかもしれません。
 しかし、同じ入試に合格した、高校や私立中学の中で下位層から上位層に移動することくらいは、遺伝以外の5割で可能だ、というのが、大学受験塾チーム番町の塾長の経験上の結論です。

 教え方+本人の変化が2割、遺伝に還元されない家庭環境が3割をどう考えるか。
 これも塾長の経験に合致します。塾がいくらしっかりしていても、ご家庭がおかしなことをゴチャゴチャおっしゃっているようだと、成績は上がりません。
 逆に、入塾前に高校内で下位層でも、ご家庭が塾長の指導方針にご理解いただいた場合、上位層にまで伸びます。
 したがって、大学受験塾チーム番町では、入塾時に保護者の方向けに、ごくごく簡単ですが、ご家庭での振る舞いかたの指針をお渡ししております。その文書の参考図書の冒頭に、本書とこの数字を挙げております。また、当サイトでは、ご家庭がどのような環境であればよいか、科学的根拠とともに示している書籍を何冊も紹介しています。

 得意科目、苦手科目という言葉をよく聞きます。英語が得意な遺伝子、数学が得意な遺伝子といったものは存在するのでしょうか。
 本書では、研究によると、科目ごとの得意、苦手の遺伝子も存在するが、科目ごとの凸凹は、遺伝、生物学的要素よりも環境の影響が大きい、とのことです。これは、教育現場での指導や子育てにおけるアプローチを考える上で、「なぜヒトは学ぶのか」につき、重要な示唆を提供していると思います。
 塾長の経験上も、英語が得意で数学が苦手、という人は、数学もできるようになります。「苦手」という言葉は、使ってはいけないと思いました。

 

ワーキングメモリ

 『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の第三部「教育の脳科学」では、「ワーキングメモリ」という、今、流行りの概念が出てきます。脳科学も「生物学的」考察と言えるでしょう。
 本書には書かれていませんが、パソコンやスマホの「メモリ」と同様に、「ワーキングメモリ」は作業机の広さに例えられ、適切な方法で鍛えられそうだ、という研究があります。作業机が広ければ、学習や仕事にも有利になりますね。これも、「なぜヒトは学ぶのか」につき、重要な示唆を提供していると思います。

 

まとめ

 全体として、この本は「なぜヒトは学ぶのか」について深く掘り下げることで、教育の本質を理解する手がかりを提供します。それは生物学的な視点からの洞察だけでなく、人間の進化、社会、個々の遺伝と環境との関わりまでを包括した幅広い視野を提供しています。
 教育を深く考えるすべての人々にとって、この本は必読の一冊と言えるでしょう。教育現場で働く人々だけでなく、教育に興味を持つ親、学びに興味を持つ学生たち、そして私たち一人一人にとって、この本は新たな視点と知識を提供してくれます。私自身、この本を読むことで教育と学びについて新たな視点を得ることができ、「なぜヒトは学ぶのか」につき考え続け、これからの人生に大きな影響を与えることとなるでしょう

 

「なぜヒトは学ぶのか」とフーコー

 フーコーは、主体(自己)が社会的・歴史的に構築されるものだと考えました。この観点からすれば、「他者のため、他者とともに生きる」という学習の目的も、特定の社会的文脈の中で形成されてきた言説の一つだと言えます。この言説は、個人主義的な学習観に対する Alternative として機能し、学習を社会的な責任や連帯と結びつけます。    

 しかし、フーコーの視点からすれば、この言説もまた、一定の権力関係の中で生み出され、維持されているものです。「他者のため」に学ぶことを奨励する言説は、個人に特定の道徳的規範を内面化させ、自己犠牲や奉仕の価値を説きます。これは、規律訓練社会の一形態であり、個人を特定の方向に導く働きを持っています。

 また、「他者とともに生きるため」に学ぶという考え方は、社会的な調和や協調を重視する言説と結びついています。しかし、フーコーの権力論からすれば、この言説は、差異や対立を隠蔽し、既存の権力関係を維持する効果を持つ可能性があります。「ともに生きる」ことを強調するあまり、社会的な不平等や抑圧の問題が見過ごされてしまうかもしれません。

 ただし、フーコーの思想は、「他者のため、他者とともに生きる」という学習の目的を全面的に否定するものではありません。フーコーは、権力関係が生産的な側面を持ち、抵抗の可能性を内包していることも指摘しています。「他者のため」に学ぶという言説も、利他的な行動を促し、社会的な連帯を生み出す積極的な効果を持ち得るでしょう。

 重要なのは、この言説を無批判に受け入れるのではなく、その背後にある権力の作用を認識し、問い直していくことです。「他者のため、他者とともに生きる」ことの意味を、常に批判的に吟味し、再定義していく必要があります。そのためには、多様な視点から学習の目的を捉え直し、Alternative な学びの在り方を模索していくことが求められます。

 例えば、「他者のため」に学ぶことを、単なる自己犠牲ではなく、相互の尊重と対話に基づく営みとして捉え直すことができるでしょう。また、「他者とともに生きる」ことを、差異を認め合い、ともに成長していくプロセスとして理解することもできます。このように、フーコーの思想を手がかりとして、学習の目的をめぐる言説を批判的に解体し、再構築していくことが重要だと言えます。

 「他者のため、他者とともに生きるため」に学ぶという見解は、一定の積極的な意義を持ちつつも、常に権力関係の文脈の中で捉え直される必要があります。フーコーの思想は、この見解の背後にある規範的な前提を問い直し、より開かれた学びの可能性を探るための示唆を与えてくれます。私たちは、学習の目的をめぐる支配的な言説に抗して、自らの学びの意味を主体的に構築していかなければならないのです。

 

「なぜヒトは学ぶのか」とハイデガー

 ハイデガーの観点から「なぜヒトは学ぶのか」という問いを考えるとき、まず私たちは「世界内存在」としての人間の在り方に目を向ける必要があるでしょう。私たちは決して孤立した主体ではなく、常にすでに他者や事物とのつながりの中で生きています。ハイデガーが「世界」と呼ぶのは、こうした意味連関の総体にほかなりません。

 そして、この世界の中で人間が学ぶということは、単に知識を頭の中に蓄積することではありません。むしろ学びとは、世界を理解し、そこに参与し、みずからを形成していくプロセスだと言えます。私たちは学ぶことを通じて、他者との関わりを深め、共同体の一員としての役割を見出していくのです。

 ハイデガーはまた、人間を「言葉の牧人」と呼びました。言葉は単なるコミュニケーションの道具ではなく、存在を開示する出来事だからです。私たちは言葉を学び、言葉を使うことで、世界を意味あるものとして経験し、他者と思想を分かち合うことができます。この意味で、学びは言葉を通じた世界との対話であり、他者との対話なのです。

 さらに「死への先駆」の概念を手がかりにするなら、学びには実存的な意義もあると言えるでしょう。私たちは有限な存在であり、いつか必ず死を迎えます。この死の可能性を真摯に引き受けるとき、人は自らの生を本来的に生きる決意を迫られるのです。そして学びは、まさにこの「本来的な生」を形作る営みにほかなりません。私たちは学ぶことで、みずからの可能性を切り拓き、意味ある人生を歩むことができるのです。

 とはいえ、ハイデガーの議論をそのまま「他者のため」という倫理的な主張に結びつけるのは難しいかもしれません。彼の関心は何より、存在の意味を問うことにあったからです。しかし、「他者のため、他者とともに生きる」という倫理的態度は、ハイデガーの思想と無関係ではありません。私たちが世界の中で他者と分かち合いながら生きる存在である以上、学びを通じて他者との絆を深めていくことは、一つの道筋として考えられるでしょう。

 ただし、ハイデガーならば、安易な利他主義には与しないはずです。大切なのは、みずからの存在可能性に誠実に向き合い、本来的な在り方で生きることだからです。私たちは学びを通じて、自分自身であることと、他者とつながることとを、地道に両立させていく必要があります。それは容易な道のりではありませんが、かけがえのない営みではないでしょうか。

 

「なぜヒトは学ぶのか」とデリダ

 学びを個人の利益や自己実現のためだけでなく、他者との関係性の中で捉えている点で、デリダの他者論と共鳴します。デリダは、自己が他者によって構成されており、自己と他者は互いに不可分な関係にあると考えました。この観点からすれば、学びもまた、自己と他者の関係性の中で生じる事象であり、他者なくして学びは成立しないと言えるでしょう。

 さらに、「他者のため」に学ぶというのは、ある種の贈与の行為とも解釈できます。デリダの贈与論によれば、真の贈与とは見返りを求めない一方的な与えです。他者のために学ぶことは、自分の利益を度外視して知識を贈与する行為であり、経済的交換とは異なる倫理的関係性を生み出すと考えられます。

 ただし、ここで問題となるのは、「他者のため」という言葉の曖昧さです。他者とは具体的に誰を指すのか、また、他者の利益をどのように定義するのか。デリダの脱構築の観点からすれば、「他者のため」という表現自体が、ある種の形而上学的な前提に基づいていると言えます。つまり、自己と他者を明確に区別し、他者の利益を自明のものとして想定しているのです。

 しかし、自己と他者の境界は曖昧であり、絶えず変動しています。また、他者の利益も一義的に定まるものではなく、状況に応じて変化します。そのため、「他者のため」に学ぶことは、常に不確定性と曖昧さを孕んだ行為であると言えるでしょう。

 とはいえ、だからこそ、「他者のため」に学ぶことには倫理的な意義があるのかもしれません。デリダのホスピタリティの思想が示すように、他者への無条件の歓待は不可能でありながら、絶えず求められる倫理的責任です。他者のために学ぶことも、完全には実現できない理想ではありますが、他者への倫理的責任を引き受ける行為として意味を持ちます。

 そして、「他者とともに生きるため」に学ぶというのは、まさにこの倫理的責任を具体的に実践することだと言えます。他者とともに生きるということは、自己と他者の差異を認め、互いの価値観を尊重し合うことです。そのためには、他者について学び、対話を重ねることが不可欠です。学びは、自己と他者の差異を乗り越え、ともに生きる可能性を切り拓く営みなのです。

 ただし、ここでも脱構築の視点は重要です。「他者とともに生きる」ということ自体が、一つの理想であり、完全には実現不可能な目標だということを忘れてはなりません。他者との共生は、常に不確定で脆弱な関係性の中で模索されるものであり、決して安定した到達点ではないのです。

 以上のように、デリダの思想を踏まえれば、「ヒトが学ぶのは他者のため、他者とともに生きるため」という見解は、様々な問いを喚起する示唆に富んだ洞察だと言えます。学びを自己と他者の関係性の中で捉え、倫理的責任の実践として位置づける一方で、その不可能性と曖昧さを認識することが求められるでしょう。そうした脱構築の眼差しこそが、学びの意味を絶えず問い直し、新たな地平を切り拓く原動力になるのではないでしょうか。

 

『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』の目次

序章 教育は何のためにあるのか

第一部 教育の進化学
第1章 動物と学習
1.知識によって生きる動物
2.知識の由来
第2章 人間は教育する動物である
1.教育によって学ぶ本能
2.文化的知識の創造・蓄積・学習におよぼす教育の意味

第二部 教育の遺伝学
第3章 個人差と遺伝の関係
1.教育と遺伝ー残酷な真実?
2.行動遺伝学とは何かー双生児法のロジック
第4章 能力と学習
1.学力はどのように遺伝的か
2.遺伝と環境の交互作用
3.能力には遺伝的基盤があることを認めたとき、どう考えるか

第三部 教育の脳科学
第5章 知識をつかさどる脳

 

この記事を書いた人

大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。

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