【感想・書評】勉強の哲学 来たるべきバカのために(文藝春秋、千葉雅也)
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の著者と信頼性
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の著者の千葉雅也先生は立命館大学の准教授(その後教授になりました)です。東大卒。フランスにも留学し、哲学、表象文化論を専攻され、フランス現代思想の研究と美術、文学、ファッションなどの批評を連関して行っているそうです。他に『現代思想入門』(講談社現代新書)などの著書があります。
有名大学の教授なので、信頼性は絶大と言えます。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の感想、書評
本書は、東大、京大でも売れたそうです。一言で言えば、自己啓発と自己破壊の間で揺れ動く、普遍的な「勉強」の問いを提示してくれる作品です。
大学受験生がしなければならないのは「勉強」ですね。
「哲学」とは
「哲学」を辞書で引くと、「世界・人生などの根本原理を追求する学問」とあります。つまり、本書も、大学の哲学の准教授(現教授)の千葉雅也先生が、「勉強」の「根本原理を追求」しよう、という試みだと思います。
「勉強とは自己破壊である」を哲学する
千葉雅也先生は「勉強とは自己破壊である」とおっしゃいます。
環境の中で「こうするもんだ」という「ノリ」に合わせていた「ただのバカ」から、別の考え方=言い方をする環境へ引っ越し、「来たるべきバカ」になることであると。
たとえば、大学受験塾チーム番町から800mほどの靖国神社には、大村益次郎像が立っています。「あの銅像は大村益次郎像だよね」くらいが普通の「ノリ」でしょう。
しかし、大村益次郎について勉強すると、家業は長州の村医者で、大坂適塾で蘭学を学び、塾頭として頭角を現して、宇和島藩では黒船を作り、江戸では、幕府の学問所の教授を務めるとともに、大村益次郎像から番町側に行ったあたりで「鳩居堂」という蘭学(数学、物理学、化学、オランダ語など)の塾を開いていて、長州藩にスカウトされ軍務大臣のような職務に就き、幕府の第二次長州征伐では司令官として幕府軍を押し返し、戊辰戦争では江戸城で総指揮を採った、などということがわかります。
こんなことをベラベラと話しだしたら、「ノリが悪い」「キモい」「周囲から浮いている」人だと思われることでしょう。本書では、そうなることが「勉強」だとしています。
いやあ、レベルが高い「勉強」ですね。周囲から浮いて、変なやつだと思われる覚悟が必要ですね。勉強とは恐ろしいものだな、と思いました。これまでの自己という概念を壊し、新たな視点や思考方法を受け入れることは極めてチャレンジングであり、安定した自己を捨て去ることでしか、真の理解や学び、つまり勉強の哲学が得られないということですね。
デリダは、私たちが無批判に受け入れている価値観や概念を脱構築することを提唱しました。つまり、私たちが当然のものとして受け入れている「ノリ」や「常識」そのものを問い直すことが重要だと考えました。
千葉先生の言う「ただのバカ」とは、ある特定の環境の中で支配的な価値観に無批判に順応している状態を指すと言えるでしょう。それは、デリダの言う「ロゴス中心主義」的な思考、つまり、ある特定の言説や価値観を中心に据えて、それ以外の可能性を排除してしまう思考に他なりません。
一方、「来たるべきバカ」になるということは、そのような支配的な価値観から脱却し、新たな思考の可能性を切り拓くことを意味するのではないでしょうか。それは、デリダの言う「脱構築」の実践にほかなりません。
ただし、ここで注意すべきは、「来たるべきバカ」もまた、一つの「ノリ」や「常識」に過ぎないということです。デリダが示唆するように、どのような価値観も絶対的なものではなく、常に脱構築の対象となり得るのです。
したがって、真の意味での「勉強」とは、ある特定の価値観を別の価値観に置き換えることではなく、価値観そのものを常に問い直し、更新し続けることなのかもしれません。それは、「ただのバカ」から「来たるべきバカ」へ、そしてまた新たな「バカ」へと、終わりなき自己破壊と自己更新のプロセスを辿ることを意味するのです。
そのためには、私たちは自分自身の思考の枠組みを常に疑い、問い直すことが求められます。自分が無意識のうちに前提としている「ノリ」や「常識」を脱構築し、新たな可能性に開かれていく勇気が必要なのです。
千葉先生の言葉は、デリダの思想と共鳴しながら、私たちに「勉強」の本質的な意味を問いかけているように思えます。「勉強」とは、固定化された知識を獲得することではなく、自己を破壊し、更新し続けることなのです。
「勉強しなさい」を哲学する
『メイキング・オブ・勉強の哲学』のほうでは「勉強しなさい」という言葉について、少し語られています。世間一般の「勉強しなさい」は、「そこそこ稼ぎのある勤め人になってくれればいい」という程度であって、逆に、深くものを考えてヤバいこというやつになっちゃ困ると思っている、としています。勉強は恐ろしいことであると。
深くものを考えると、塾長のように、世の中の塾、予備校は、間違っているのではないか、という「ツッコミ」(すぐ下で述べます)、ちゃぶ台返しを始めることになります。また、そもそも現在、大学の研究や、現場の気鋭の指導者によると、「勉強しなさい」というのは、逆効果、ということになっています。子供が本書のように勉強すると、逆に親は「勉強しなさいと言うのは逆効果だということは、大学の研究なんだけど、そんな事も知らないの?そっちこそ勉強すれば?」と言われることになりますね(笑)。
さて、それでも、世間の保護者は子供に「勉強しなさい」という勇気があるでしょうか?「勉強しなさい」と言うほうも、その発言の意味を、深掘りする、「勉強の哲学」について考える必要があると思いました。
世間一般の保護者は、勉強とは社会の支配的な価値観に適応するための道具であり、既存の秩序を維持するためのものだと考えています。
しかし、デリダ風に言うと、このような勉強観は、ロゴス中心主義的な思考に基づいています。それは、特定の価値観や規範を中心に据え、それ以外の可能性を排除する思考です。「そこそこ稼ぎのある勤め人」という価値観もまた、一つの構築物に過ぎないのです。
保護者が「深くものを考えて、ヤバいこと言うやつ」を忌避するのは、その価値観が脅かされることを恐れているからだと言えるでしょう。支配的な価値観に疑問を呈し、別の可能性を探ろうとする態度は、既存の秩序を揺るがす危険性を孕んでいます。
しかし、真の意味での勉強とは、まさにそのような危険性を引き受けること、だと思います。勉強とは、固定化された知識を受動的に吸収することではなく、既存の価値観を脱構築し、新たな思考の地平を切り拓くことだと言えるでしょう。
その意味で、勉強は確かに「恐ろしいこと」なのかもしれません。それは、自分自身の確信や価値観を根底から揺るがし、未知の領域へと踏み出すことを要求するからです。勉強とは、自己を破壊し、更新し続ける終わりなきプロセスなのです。
このように考えると、保護者の「勉強しなさい」という言葉は、皮肉にも、勉強の本質を見失わせる危険性を孕んでいると言えるでしょう。真の意味での勉強は、社会の支配的な価値観に適応することではなく、その価値観そのものを問い直し、脱構築することなのだと思います。
ただし、ここで注意すべきは、「ヤバいこと言うやつ」もまた、一つの価値観に過ぎないということです。どのような立場も絶対的なものではなく、常に脱構築の対象となり得るのです。
したがって、勉強の目的は、ある特定の立場に与することではなく、あらゆる立場を相対化し、常に新たな可能性に開かれ続けることだと言えるでしょう。それは、保護者の価値観をも、「ヤバいこと言うやつ」の価値観をも超え出る、終わりなき思考の運動なのです。
勉強とは、安定した地盤を踏み外し、未知の領域に飛び込むことと言えるでしょう。
勉強の哲学におけるツッコミとは?
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』では、いわゆる漫才でいう「ツッコミ」について「アイロニー」という用語を使っています。たとえば、学校へ行く、テストでいい点を取る、というのは、普通の「ノリ」でしょう。
ここで自分にツッコミを入れます。「なぜ学校に通っているのだろう」「なぜテストでいい点を取らなければならないのだろう」。すると、「学校」とはなにか、「テストとはなにか」、「勉強とはなにか」(まさに、本書のテーマ、勉強の哲学)など、深いテーマが開けてくるはずです。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』では、「アイロニー」は「根拠を疑うこと」としています。「なぜ学校に通っているのだろう」「なぜテストでいい点を取らなければならないのだろう」なども、根拠を疑っています。また、東大を目指すなら予備校の「東大コース」に通う、医学部を目指すなら予備校の「医学部コース」に通うことは普通のことと思われがちです。しかし、「本当に東大数学なんてあるのだろうか」「本当に医学部英語なんてあるのだろうか」と根拠を疑ってみることが大切、哲学なのだと思います。
「学校へ行く」「テストでいい点を取る」ということが「普通の『ノリ』」とされているのは、まさにそれが社会的に構築された価値観だからです。しかし、その価値観自体は自明のものではなく、常に問い直される必要があります。
「なぜ学校に通っているのだろう」「なぜテストでいい点を取らなければならないのだろう」という問いかけは、その価値観の根拠を問う「アイロニー」の実践に他なりません。それは、一見自明に見える前提を疑い、別の可能性を探ることを意味します。
デリダの観点からすれば、このような「アイロニー」は、単なる否定や懐疑ではなく、新たな思考の地平を切り拓く積極的な営みです。既存の価値観を脱構築することは、私たちを固定化された意味の束縛から解放し、新たな解釈と創造の可能性に開かれた場所へと導くのです。
ただし、ここで注意すべきは、「アイロニー」もまた一つの立場に過ぎないということです。デリダが示唆するように、どのような立場も絶対的なものではなく、常に脱構築の対象となり得ます。「アイロニー」の実践者もまた、自らの立場を相対化し、問い直し続ける必要があるのです。
したがって、真の意味での「勉強」とは、ある特定の立場に与することではなく、あらゆる立場を相対化し、常に新たな可能性に開かれ続けることだと言えるでしょう。それは、「普通の『ノリ』」をも、「アイロニー」の立場をも超え出る、終わりなき思考の運動なのです。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』における「アイロニー」の概念は、デリダの脱構築の思想と深く共鳴しながら、私たちに「勉強」の本質的な意味を問いかけているように思えます。「勉強」とは、固定化された価値観を受け入れることではなく、その価値観そのものを常に問い、揺るがし続けることなのです。
勉強の哲学におけるボケとは?
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』では、いわゆる漫才でいう「ボケ」について「ユーモア」という用語を使っています。「ユーモア」とは、見方を変えること、「ノリ」を「拡張」すること。
先述の大村益次郎についてこまごまと語るのも、「ノリ」の「拡張」ですね。逆に、靖国神社について話をしているときに、大村益次郎像の話に「縮減」して、大村益次郎についてこまごまと語りだすのは「ノリ」の「縮減」でしょう。
「なぜ?」と問い続けることと、見方を変えて新たな視点を持つことの両方が、深い学びと理解、つまり、勉強の哲学へと繋がることを示していると思いました。
デリダは、意味の固定化や二項対立的な思考を脱構築することを試みました。彼にとって、言語は常に不確定で、意味は絶えず差延されるものでした。したがって、ある特定の見方に固執することは、思考の可能性を狭めてしまう危険性があります。
「ボケ」としての「ユーモア」は、まさにそのような固定化された見方を揺るがす働きを持っていると言えるでしょう。「ユーモア」とは、常識的な見方を逸脱し、別の視点から物事を捉え直すことを意味します。それは、既存の枠組みに収まらない発想の飛躍であり、新たな解釈の可能性を開く営みなのです。
このような「ユーモア」の実践は、デリダの脱構築の戦略と重なり合うものがあります。脱構築とは、テクストに内在する矛盾や欠落を暴き出し、既存の意味の体系を揺るがすことを目指します。それは、一見自明に見える前提を疑い、別の読みの可能性を探ることに他なりません。
「ユーモア」もまた、日常的な見方を相対化し、別の視点から世界を捉え直すことを可能にします。それは、私たちを意味の固定性から解放し、新たな思考の地平を切り拓く営みだと言えるでしょう。
ただし、ここで注意すべきは、「ユーモア」もまた一つの見方に過ぎないということです。デリダが示唆するように、どのような見方も絶対的なものではなく、常に脱構築の対象となり得ます。「ユーモア」の実践者もまた、自らの視点を相対化し、問い直し続ける必要があるのです。
したがって、真の意味での「勉強」とは、ある特定の見方に固執することではなく、あらゆる見方を相対化し、常に新たな可能性に開かれ続けることだと言えるでしょう。それは、常識的な見方をも、「ユーモア」の視点をも超え出る、終わりなき思考の運動なのだと思います。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』における「ユーモア」の概念は、デリダの脱構築の思想と共鳴しながら、私たちに「勉強」の本質的な意味を問いかけているように思えます。「勉強」とは、固定化された見方を受け入れることではなく、その見方自体を常に問い、揺るがし続けることなのだと思います。
さて、塾長は、なぜ、大村益次郎について語りたいのでしょうか。それは、語ることが楽しいからです。「享楽」に浸っているからです。本書では、「縮減的ユーモア」は「享楽的こだわり」のために口を動かしている、とします。
「やりたいことが見つからない」「大学の志望学部がわからない」といった人は多いと思います。そういう人は、自分は何が楽しいのか、「享楽的こだわり」を考えてみるといいのかな、と気付かされました。
勉強の哲学における有限化とは?
「ツッコミ」「アイロニー」によって「なぜ?」を「追求」するにせよ、「ボケ」「ユーモア」によって「連想」を「拡張」するにせよ、上記のこのような問いは無限に深まります。
そこで勉強の有限化は、勉強において本質的、哲学的です。
たとえば、大学受験の日本史では、「大村益次郎」と書かされたり、選択させられたりすることはあっても、大村益次郎の家業が村医者であったり、番町で「鳩居堂」という蘭学の塾を開いていたことは、まず問われないでしょう。
デリダは、意味の無限の連鎖と差延を強調しました。彼にとって、言語は決して確定的な意味を持つことはなく、常に他の記号へと差延されていくものでした。したがって、「なぜ?」を追求することも、「連想」を拡張することも、原理的には無限に続く営みだと言えるでしょう。
しかし同時に、デリダは現実の場面での意味の確定を全否定した、「安易なニヒリスト」と指摘されることもあります。脱構築は、意味の無限の遊びに終始するのではなく、むしろ意味の確定を可能にするための条件を問うものでもあったのです。
この観点から見ると、勉強の有限化は、無限の思考の運動を現実の場面で実践するための不可欠な契機だと言えるでしょう。「ツッコミ」と「ボケ」を無限に続けることは、思考の可能性を開く上で重要ですが、同時にそれを有限の形に結晶させることも必要なのです。
勉強の有限化とは、ある一定の枠組みの中で思考を展開し、その成果を他者と共有可能な形で表現することを意味します。それは、無限の思考の運動を一時的に停止し、その意味を確定する作業に他なりません。
ただし、ここで注意すべきは、有限化された勉強の成果もまた、脱構築の対象となり得るということです。デリダが示唆するように、どのような枠組みも絶対的なものではなく、常に問い直される必要があります。有限化された勉強の成果は、新たな「ツッコミ」と「ボケ」の出発点となるのです。
したがって、真の意味での「勉強」とは、無限の思考の運動と有限化のプロセスを絶えず往還することだと言えるでしょう。それは、「ツッコミ」と「ボケ」によって思考を深化させると同時に、その成果を有限の形で結晶化する営みなのです。
「ツッコミ」「アイロニー」と「ボケ」「ユーモア」の無限の深まりと、勉強の有限化の必要性は、デリダの思想と共鳴しながら、私たちに「勉強」の本質的な意味を問いかけているように思えます。「勉強」とは、無限の思考の運動と有限化のプロセスを絶えず往還することなのです。
さて、どうやって勉強を有限化するか。
教師は勉強の有限化の装置である
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』では、教師は有限化の装置である、とします。
たとえば、上記のように、大学受験では、大村益次郎の家業が村医者であったりすることは問われません。しかし、世の中の大学受験塾、予備校では、大学受験に出題されないことを講義することによって、受験生を引きずり込む、他者との差別化を図る、といった手法がよく行われるようです。数学や物理や化学で、必要のない大学レベルの概念を持ち出す。「東大日本史」は資料読み取り型で細かい知識は必要ないのに、私大のような知識偏重の授業を行う、など。有限化として働くどころか、受験生を「ノリ」の「拡張」の泥沼へと引きずり込んでゆくのだと思います。そして、大学合格からは遠ざかってゆく。
大学受験塾チーム番町では、例えば、数学は、教科書を理解し、チャート式やFocus Gold(啓林館)あたりを全問解けるようにして、少し入試問題に慣れれば、東大や医学部に合格できる、と勉強を有限化しています。その根拠は、模試や過去問について実際に、「この問題はFocus Goldのこのページを理解していれば解けたよね」「この問題は解けなくても合格点に達するよね」といった検討をする、具体的事実を示すことだと考えています。
大学受験塾の勉強に対する姿勢は、「哲学的」なのですね(笑)。
勉強の哲学における「信頼できる他者」とは?
世の中には、様々な教育、勉強法の本が存在します。
お子さん4人を東大理Ⅲに「入れた」ママの教育論。東大法学部卒、元財務官僚で現在は弁護士の「7回読み勉強法」。などなど。
さて、学生、受験生、保護者は、何を信じればいいのでしょうか?
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』では、「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である」「「勉強するにあたって信頼すべき他者は、勉強を続けている他者である」とします。つまり、その人たちは、「研究」「学問」に属している人、ということになります。
つまり、勉強の足場とすべきは「ネット」や「一般書」ではなく、「専門書」「研究書」であるとします。「専門書」「研究書」は、専門分野の業界や学問の世界に直接・間接の関わりがあり、同種のテーマに関する他者との建設的な議論が背景にあるから信頼性の根拠がある、とのことです。
したがって、教育論や勉強法について、信頼すべきは、大学の研究に基づく本ということになります。
大学受験塾チーム番町では、教育論、勉強法について、なるべく、大学の研究に基づく本、または、それに準ずるサンプル数のある本、をおすすめしています。
大学受験塾チーム番町では、数学、物理、化学の授業で、一番基本の部分の理解に検定教科書を使います。その理由の1つに「共著であり、文科省の検定を通っている」があります。著者の言う「信頼性の根拠」に近いのだと思います。
教科書検定制度にも弊害はあるでしょう。しかし、現状、数学、理科の教科書は「なぜそうなる」という理解の部分がしっかり書かれていることが多いのに対し、市販や塾の教材は問題の解き方が書いてあるだけのことも多いです。
トップレベルの中学、高校に合格した人が、高校の数学や理科で挫折する、というのは非常に多い話です。塾長は、この原因の1つは、検定教科書を軽視し、「信頼性の根拠」に欠ける場所に学習の足場を置いたため、教科書に書いているような「なぜそうなる」という理解をせずに、問題の解き方だけを覚えるような悪いクセが身についてしまうからではないかと思います。
また、法学部に興味がある人へ、経済学部に興味がある人へのページでは、予備校の先生が書いた入門書とともに、学者の先生が書いた本を紹介しています。これも、著者の言う「信頼性の根拠」に近いと思います。
大学受験塾チーム番町は、教育論、勉強法の指導についても「哲学的」なのですね(笑)。
本の「信頼性」を前提として、読む本をどのように比較し決めるか。著者は「享楽のこだわり」で、自分なりに、主観的に決めるとします。
勉強の哲学における享楽とは?
上記「ボケ」の項で、塾長が大村益次郎について語りたいのは、楽しいから、「享楽」に浸っているから、と述べました。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』では、勉強を有限化するためには、比較を中断する必要があり、そのためには、信頼できる情報を比較する中で、自分の享楽的こだわりによって足場を定める、しかし、それを絶対化しないことが必要、とします。
デリダは、意味の無限の連鎖と差延を強調すると同時に、現実の場面での意味の確定の必要性も認めていました。脱構築は、意味の無限の遊びに終始するのではなく、意味の確定を可能にするための条件を問うものでもあったのです。
この観点から見ると、「比較を中断する」ことは、無限の思考の運動を一時的に停止し、意味を確定するための重要な契機だと言えるでしょう。比較を続けることは、思考の可能性を開く上で重要ですが、同時にそれを有限の形に結晶させるためには、ある地点で比較を中断する必要があります。
ただし、ここで注意すべきは、比較の中断が恣意的なものであってはならないということです。デリダが示唆するように、意味の確定は、単なる主観的な選択ではなく、一定の条件の下で行われる必要があります。
『勉強の哲学』で提示されている「信頼できる情報を比較する中で、自分の享楽的こだわりによって足場を定める」という方法は、まさにこの点を捉えていると言えるでしょう。信頼できる情報を比較することは、主観的な恣意性を排除するための重要な条件です。そのうえで、自分の享楽的こだわりに基づいて足場を定めることは、意味の確定を可能にする実存的な決断なのです。
しかし同時に、『勉強の哲学』は、その足場を「絶対化しない」ことの重要性も指摘しています。これもまた、デリダの思想と深く共鳴するものがあります。デリダにとって、どのような意味の確定も、絶対的なものではなく、常に脱構築の対象となり得るものでした。
したがって、真の意味での「勉強」とは、比較の中断と意味の確定を繰り返しながら、同時にその確定された意味を常に問い直し続けることだと言えるでしょう。それは、信頼できる情報を比較し、自分の享楽的こだわりに基づいて足場を定めると同時に、その足場を絶対化することなく、新たな思考の可能性に開かれ続ける営みなのだと思います。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』で提示されている勉強の有限化の方法は、デリダの脱構築の思想と共鳴しながら、私たちに「勉強」の本質的な意味を問いかけているように思えます。「勉強」とは、無限の思考の運動と有限化のプロセスを絶えず往還しながら、確定された意味を常に問い直し続けることなのだと思います。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』では、「享楽のこだわり」は自分のバカの部分で、おそらく変化可能である。自分の根っこ(哲学的な部分)のバカさを変化させる。そのために、欲望年表をつくり、発端にある出来事と出会い直そうとする。別のしかたでバカになり直す。ことを勧めています。
これが「来たるべきバカ」だそうです。
「来たるべきバカ」という概念は、自己変革のプロセスを象徴しています。自分自身の「バカさ」を認識し、それを変化させていくことで、新たな自己として生まれ変わることを勧めています。これは、自己成長、勉強の絶え間ない旅であり、その中で常に変わり続けることの美しさを示しています。
先述した、「やりたいことが見つからない」「大学の志望学部がわからない」といった人にも「欲望年表」は有効なのかもしれないな、と思いました。
勉強の哲学についての塾長の私見
著者は「勉強→引っ越し」という順番で考えているようです。もちろんそれもいいと思います。
一方で、逆に、「先に引っ越して、勉強のきっかけを得る」という考え方も、たとえば大学受験において、本質的、哲学的ではないかと思います。
たとえば、東大に20~30人受かる高校と、東大に2~3人ほど受かる高校があったとしましょう。
高校の授業が教科書とやや上(数学ならチャート式レベル)を扱うという点では、そう変わらないのではないでしょうか。現実に、東大に20~30人受かる高校の下位層より、東大に2~3人受かる高校の上位層のほうが進学実績はいいでしょう。
ただ、上位層だけを比べるとき、おそらく「環境のノリ」の差が大きいと思います。日常会話の知的レベルも若干違うでしょう。また、中学、高校入試の時点で「何が何でも○○中・高」と思ったか否かの「ノリ」も差を分けるような気がします。
なるべく大学進学実績のいい高校に入るメリットの1つは、「環境のノリ」にあると思います。
行動遺伝学によると、能力は遺伝要因が5割ほど、環境5割ほどだそうです。家庭や学校の「環境のノリ」は大きそうです。家庭や学校で日常的に知的な会話が行われる、東大に入るのはアタリマエ、などの環境があれば、大学受験もうまくいきやすいでしょう。
高校生は普通、家庭を「引っ越し」ませんから、「引っ越す」きっかけは、中学入試、高校入試、だったでしょう。もちろん、これから迎える大学受験も「引っ越す」きっかけでしょう。
そして、引っ越した先の「ノリ」に合わせるには「勉強」が必要になりますね。
題名にもあるように、『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の背景には哲学があります。倫理の教科書を読んでいると、少し読みやすいかもしれません。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の出版社の実績、信頼性
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の出版社は文藝春秋です。雑誌「文藝春秋」は、文学、政治、社会問題など幅広い分野の記事が掲載されている総合雑誌です。また、芥川賞・直木賞の最新情報も掲載されています。「文春文庫」は、たとえば、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『翔ぶが如く』など、ベストセラーやNHK大河ドラマ化、スペシャルドラマ化された作品が文庫化されています。
「文藝春秋」「文春文庫」の実績、信頼性は抜群と言えます。
この記事を書いた人
大学受験塾チーム番町代表。東大卒。
指導した塾生の進学先は、東大、京大、国立医学部など。
指導した塾生の大学卒業後の進路は、医師、国家公務員総合職(キャリア官僚)、研究者など。学会(日本解剖学会、セラミックス協会など)でアカデミックな賞を受賞した人も複数おります。
40人クラスの33位での入塾から、東大模試全国14位になった塾生もいました。